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クローゼットに挑む

クローゼットを見つめて嘆息、このところそのくりかえし。だって着たい服がないのだもの。1シーズンにすべて刷新する、ということがなければ基本的にクローゼットにあるのは過去の集積だ。過ぎた日々、わたしが選んで手にしてきた服たち。そのほとんどをため息交じりで見つめている。これは、罰。欲しいのではなく気晴らしで服を消費してきたことの、罰なのだ。

衣替えとされる季節が到来し、移動中の電車や駅で行きかうひとたちのお洋服を眺める。わたしって、どう見られたいという願いで服を選びまとっているんだろう?とふと思った。だって、こんなにもさりげなく「ただ衣服として」着ている、というひとの群れのなかで、みんなすごくそれぞれにフィットしている感じすらするのに、どうしてわたしはそうじゃないんだろう?違うのだ、ファッショニスタにあこがれてなぞ毛頭ないし、着ているもので自己表現をしたいとかでもない、自分というものに完璧にフィットしているお洋服って?という思い。ばかみたいだ、平和すぎるだろ。と自嘲して笑う。

ものすごい本質で言えば、身体がきれいであれば(要するに個々にある理想を実現している体という意味で)服なんてなんでも似合う。そうか、服にきられているのではなくて、それが服を着ているということか。心が葛藤で占められているとき、わたしの服選びは完全に森のなかの迷子状態になり、たとえどんなに他人によしとされようとも鏡を見るたびに自己嫌悪で悲しくなる。なるほど、ここで身体という要素のほかに心ってやつも出てきた。

心と身体、そしてたぶん頭も入る。葛藤のないスムースな心のとき、理想とする身体に近い状態で、「こういう服が欲しいわ」と冷静な思考力が三位一体状態のときにこそ、服を新調すればよいのだ。過去の集積たるわたしのクローゼットは、迷いと葛藤と怒り、自己卑下の歴史そのものなんだな。すべてとは言わないけれど。

わたしはよく、人生の転機を迎えたときを「新しい洋服を着るとき」と言ってきた。単純にそれは、似合わなくなっているからだ。過去選んだ服たちが今の自分の何かにフィットしない。すっごく気分がのらない服、それはもう通り過ぎてきた過去の思いに占有されてきた服だからだ。つまりは、そういう思いを満載にして購入したんだと思う。本当は、どんな状態で買ったとしても、人間としての生命体のパワーが服に勝っていればモノにできるはずなのだ。モノにしてしまえていたら、クローゼットに過去は存在せず、常に更新されていっている。服が新しくならずとも、服が古くならないからだ。

この5年ほどは本当に迷いの森に閉じ込められていて(誰のせいでもなくどちらかといえば勝手に迷っていた)、心も身体も頭も、三位一体に黄金比を形成することがほとんどなかったと思う。皆無だったかもしれない。そんな苦闘の日々をそばにいてくれた服たちを今、もう一度対峙して今度こそ人間のボルテージを上げてモノにしていくときなのかもしれない。

そうか、刷新でないアプローチでクローゼットを更新する。

これが今の気分なのかもしれない。覚悟に近いよね。今こそ人間のパワーを上げなくてはいつ上げるんだ、というお話でした。


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