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【展覧会小説】雪岱スタイルに乗せられて

 火曜日有休を取ったのはほとんど衝動的だった。偶然SNSで流れてきた三井記念美術館の「小村雪岱スタイル」展のポスターの画像を見たからだ。「行かなきゃ」ーーそう思った瞬間チケットを予約していた。仕事はそれほど忙しくない。契約社員の仕事など、正社員にとって「自分がしなくてもいい事」もしくは「したくない事」であるからして、要するに雑務だ。居なければ居ないで正社員が何とかする。”不要不急”という言葉が使われ出して久しいが、私の存在が会社にとって”不要不急”であった。
 せっかくの有休の朝はどんよりとした天気だったが、展覧会は事前予約制だ。雨だからやめる訳にはいかない。(と言っても三井記念美術館は入館の枠を予約するだけで料金は実際に美術館で支払うので、事前に料金を引き落とすことはないから「行かない」という選択もできたのかもしれないけど)

 小村雪岱について詳しく知っていた訳じゃない。ただSNSで流れてきたポスターの絵に一目惚れしてしまった。誰もいない畳の部屋に三味線と2つの鼓だけが小さく描かれている。部屋にも縁側にも誰もおらず、庭の柳がしな垂れているだけ...上空から人の家の中を覗き見るような感覚と、部屋に三味線と鼓だけしかないことが寂しいような、ちょっとホラーなようなそんな気がして、どうしても見ておかないといけない気がした。

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(一)『日本橋』
 美術館は空いていた。これがこの美術館の通常なのか、日時指定制だからかは分からないけど、せっかく有休までとったんだ、作品と一対一になる贅沢くらい味わいたい。

小村雪岱ーー大衆文化が花開く大正・昭和の時代に、装幀家、挿絵画家、歌舞伎などの舞台美術家として活躍した「意匠の天才」。

 チラシではそう謳われていた。最初の展示室は泉鏡花の『日本橋』の装幀。その後長く続く鏡花と雪岱のコラボ(って言っていいのか分からないけど)の第1作となる作品らしい。パステルカラーで川沿いに並ぶ蔵が規則的に描かれ、たくさんの赤や青の蝶が舞う明るく爽やかな絵だ。眺めているだけで心が弾む。『日本橋』の物語はわからいけど、どういう内容なんだろう…と思ってケースの周りを一周すると、表紙と裏表紙の見返しに、それぞれ春と夏、秋と冬の景色が描かれている。それは1つ1つがしっとりとした風情があって、どこか大人の雰囲気。表紙絵の朗らかさとはまた少し違った印象を受けた。

カシャ…カシャ…

不意に後ろから聞こえたシャッター音に振り返った。すると一人の男が熱心に『日本橋』を撮影していた。私は呆れた。美術館の展覧会では、常設展のような所蔵作品を中心とした展示では撮影できる場合もあるが、こういう企画展では基本的には撮影はNGだ。最近では撮影可能な展覧会も多いのでその辺りのルールが曖昧なのだろう。やれやれ。しばらく撮影を続ける男に私は言った。
「展覧会では撮影OKの指示がないと写真は取れないんですよ。」
 すると男は哀れむ様な顔をして私を見た。私がその顔に少しイラっとすると、やがて男は半笑いで言った。
「撮影OKの指示ありますよ。」

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 男が指さす方を見ると、展示ケースの上の隅にさりげなくカメラのイラストに丸印が入ったマークが貼られていた。私は真っ赤になって「すみません」と謝るやいなや、そそくさと次の展示室に入って行った。
「やってしまった‥‥」
 体中から火が出そうな勢いというのか、よくわからない汗が噴出する。次の展示室には可愛い小鳥の絵や、『おせん』の装幀などの版画が並ぶ。気持ちはそれどころじゃない。嫌なことに先ほどの男も展示室に入ってきた。目が合うと、男は私の気持ちを見透かすように嫌な笑顔を浮かべた。
「何あれ。感じわる…最悪……」
 せっかくの有休が台無しだ。こんな気分になるために来た訳じゃないのに…。雪岱の画風の心地良さに心を委ねたかったのに……あの男が同じ展示室にいる限り私の心の平穏は来ない。この部屋の作品には申し訳ないが次だ。

 そして、私は3つ目の展示室に入った。
そこにあったのは「雨」………いや、傘だった。

*** *** ***

(二)「おせん 雨」
 降り頻る雨の中、蛇の目傘の円、円、円…画面の下から3分の2を埋め尽くすのは傘をさして行き交う人々(と言っても人の姿はほとんど見えない)。その傘の隙間からは、二人の男がなんだか神妙そうに話す姿。若者と思しき男は斜め後ろからで表情は良く見えない。その男に向かい合っている白い頭巾のようなものを被った男は深刻そうに眉をひそめて話しているようだ。

 降り頻る雨のはずなのに、無音のような静けさ。さっきの失態でざわついていた私の心も、この作品を前にした瞬間すーっと波が引いていくような感覚になった。一切の無駄のない白と黒だけの世界。よく見ると右下には傘の間から黒づくめの格好をした人物が一人。そういえばその上にも眼光鋭い男も気になる。彼らはどういう関係なんだ...。そもそも関係ある人同士なの?絵の中の人物がどういう関係で、これがどういう場面なのかは分からないけど、この絵が「雪岱スタイル」を象徴することだけは分かる。
 これだけ群衆と傘が画面半分以上を占めていても、いやだからこそ、その隙間から覗く幾人かにスポットが当たっている。まるで映画のワンシーンのような緊迫感。見事としかいうほかない。

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「うっとりとしていた」というのは少しロマンティックすぎる、立ちすくんでいた、という感覚にも近い気がする。描かれている世界に引き込まれそうになるのと同時に、どこか冷めた感覚で傍観している不思議な心地でしばらく私は絵の前にいた。

「もう逃げないんですか?」

驚いて声のする方を向くと、そこにはさっきの男が立っていた。不意に声を掛けられて立ち去るタイミングを逸した。男が展示室の動線で言えば進行方向に当たる側に立っていたことも、私の逃亡を妨げた。驚きと戸惑いと屈辱感で言い返す言葉が全く浮かばない私に男が続けた。

「失礼でしたね。でも先ほどは私の顔を観た途端部屋を出たのに、追いついてしまうほどこの作品が気に入ったのかと思いまして。」
「あぁ、そうですね。不思議とこの絵を見た瞬間、さっきまでの恥ずかしさとかざわざわした気持ちとかがスーッと消えて、ただずっと眺めていたくなって…」
「この作品の良さはどこにあると思いますか。」
「難しい事は分からないし、正しい事なんて言えませんけど……冷たいところかな。」
「冷たいところ…それは雨が降ってるからという事ですか。」
「ううん、ちがう…あっ、違うと思います。なんて言うか、ミステリアスな状況なのに淡々としている感じというか…すみません、そんな感じで。」「いえ。とても興味深い感想だと思います。」

 男はそういうと後は何も言わずただ「雨」を見つめていた。私はどうして良いか分からず作品を眺めていたが、暫くして次の部屋へと移動した。

*** *** ***

(三)「青柳」
 大きな展示室につながる小部屋では数点の版画が並んでいた。雪岱の版画を代表する作品ばかりだったが、意外なことに雪岱の存命中の版画作品は2点ばかりで、今見ているこうした版画作品は雪岱の死後にその作品の魅力を残そうと作られたものなのだそうだ。
「グランドピアノみたい」
 そう思ったのは「雪の朝」という作品だ。画面の上部から、グランドピアノを真上から見たような形で見えるのは、しんしんと降る雪の夜に浮かぶ建物。窓から灯りが漏れている。何も描かれていない部分は降り積もった雪を表しているのだとよくよく見て気づく。大胆な構図ーどちらが図でどちらが地なのか判別できないーが、静まり返って人気のない情景と相まって、不安 な気分に陥りそうだった。そして、展覧会のポスターにもなっていた作品があった。

「青柳」ーー。見れば見るほど不思議な絵だった。柳越しに見える屋敷の一部屋。三味線と2つの鼓だけが部屋の中央に置かれていて、誰もいない。人気もない。持ち主はどこに行ってるのだろうか。そもそも三味線と鼓も気になる。これらの楽器は、わざわざそうしたかのように畳の線と並行に並んでいる。きれいに並び過ぎだ。少し前まで楽器を弾いて楽しんでいたというような物語が感じられない。じゃあなぜあるの??

持ち主はずっと、ずぅっと昔に消えたんじゃないかしら…

そんな怖い想像がふいに出た。絵の中には1つとして”怖い”要素などないのに、なんでこんなに不安になるんだろう...。そう思った時、周りを見ると先ほどの男がちょうどこの展示室に入ってきたところだった。

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「あの、この絵の感想聞かせてくれませんか。」
自分でも驚いたことに、私はこの展示室に来たばかりの男に話しかけていた。男の方も驚いていたが、了解してくれて「青柳」の前に立ち暫く眺めていた。
「なんだか私この絵がすごく怖くなって…人が消えたんじゃないかっていう想像までしちゃって……変ですよね。」
「変ではないでしょう。至極最もな感想だと思います。」
「至極最も?本当に?」
「ええ。…もしや変と言ってほしかったですか?ありきたりな感想ではないと思わせたかったですか。」

 私はムッとした。別にそんなつもりで聞き返したわけじゃない。けど皆が皆私のように怖さを感じているのかと思うとそれも不思議な気がしただけだ。この男に感想を聞こうと思った私がバカだった。「失礼しました」とだけ言って立ち去ろうとした時、男が「感想聞かないんですか?」と言ってきたが無視して続く大きな展示室に入った。

*** *** ***

(四)『愛染集』
 一番大きな展示室では、雪岱の肉筆画や模写作品が周囲の展示ケースに並び、展示室の中央にはまるで宝石が散りばめられたかのように、雪岱が装幀を手掛けた様々な本ーそれらのほとんどが小型ーが展示されていた。
 肉筆画の作品はさすがに上手くはあったけれど、私にとっては「あぁ、やっぱりこの人は装幀や版画で惹きつける人だなー」と思った。線の細さ(というよりその均質さ)や背景を描き込まない雪岱の志向では、肉筆画の画面の大きさを持て余しているように感じた。「スケールの大きいものは向かないんだろうな…」と思った。失礼極まりないが。その中でも、禅僧である寒山拾得になぞらえて女性二人がしゃがんで何やら秘密の話でもしているような作品は惹かれるものがあった。この”睦み合っている”感じ。
「百合だ。百合!」
 そんなつもりの作品じゃないだろうが、どことなくそんな怪しさを纏うのが雪岱の魅力なのだ!小さく小さく……手のひらに収まるくらいのスケールで世界を見て、手のひらに収まるくらいの画面にその世界を描き表すのが雪岱なのだ。装幀という仕事はその最高潮だったのかもしれない。だって、小説家たちが何千字、何万字という言葉を綴って作り上げた世界を、およそ高さ20センチ×幅10センチ×厚さ3センチ程度の枠の中に収めるのだから、その濃度は計り知れない。

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 今度は紛れもなく「うっとり」しながら装幀を眺めていた。その中で泉鏡花の『愛染集』を眺めているとある一つの事が気になってきた。
「文様をあしらった作品は可愛げがあるし温かみも感じるのに、風景になると途端に寒々としているというか、冷たい感じに見える…」
雪景色や雨の中、夜だからだろうか、どうも冷たい。直線が多いからだとは思う。でも直線が多いとこうも寂しく冷たく感じるのだろうか。

「これは怖くはないんですか?」

もう驚かない。この展覧会で私に話しかけて来る人など一人しかいない。顔を上げると果たして、先程の男だった。

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(五)キリコと雪岱ー再び「青柳」ー
「これは怖くはないです。でも寂しい気がします。どうせありきたりな感想ですけど。」
「キリコって知っていますか?」
「キリコ?タレント…の貴理子ではないですよね?」
「そうですね。イタリアの画家です。」
「すみません、知りません。」
「そっか。僕は雪岱の作品にはキリコと通じるところがあるなと思っています。この極端な遠近法を使って誰もいない寂しい街の様子を描くところとかよく似てるとさえ思います。」

 そう言って、男はスマートフォンでキリコという画家を検索して、その画像を見せてくれた。そこには廃墟のように人気のない街(なのかどうかも定かではない)を描いた作品がいくつか見えた。私は「あっ」と声を出した。様々な作品の画像の中で「通りの神秘と憂鬱」というタイトルの作品が雪岱の作品で感じた寂しさと似ていたからだ。”街中を少女が輪を転がして遊んでいる絵”と言えば微笑ましい作品のように思えるが、少女の他に人の姿はなく、画面の奥から射す夕日の逆光で少女はシルエットのみでその表情は分からない。画面の大半を占める建物も逆光となり地面に暗い影を落とす。その建物奥から長く伸びた彫像の影だけが見え、少女が向かう先に平穏な幸せが待っているようには思えない、不穏な空気が漂う作品だった。

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「なんだか雪岱の絵と似てますね。何が似てるんだろう。」
「技術的な事で言えば、建物を極端な遠近法で描く点、その中で人物がほとんど1人である点でしょうし、描かれた世界の設定としても夜、あるいは夕暮れといった沈鬱な気分を掻き立てやすい設定である事も似てますね。」
「建物を極端な遠近法で描くと寂しくなるんですか。」
「それがそのまま寂しさに直結するとは言えないでしょうけど、そうすることで広い街の中で人物がポツンといるという状況を作り出しやすいので、それが寂しいという感想につながると思いますし、先程あなたが”怖い”とおっしゃったことも通じるのではと思います。」
「でもあれは極端な遠近法とは違っていたと思いますけど…」
「確かに『青柳』は寧ろ日本の”吹き抜け屋台”と同じ構図ですね。」
「吹き抜け屋台?」
「平安時代の絵巻などにみられる屋敷を描く時の構図です。建物を上から覗くようなアングルで描かれ、線が並行しているので奥行きがない。」
「それだと怖いんですか?」
「それだから怖いということではないですが、本来吹き抜け屋台の構図は中にいる人物の様子を描くのに適している構図だと思っています。消失点がないので人物を同じ大きさで描ける。なのに雪岱の『青柳』ではその人物がいないことで、広々とした部屋や人物の不在が際立つ。それがあなたの感じた”怖さ”の理由なのかと思います。」
「そうなのか…。何だかそんな気もしてきます。」
「まぁ僕も専門家ではないので、正しいかどうかは分かりませんが。」
「いえ、でも少し安心しました。」
「安心?」
「はい。怖さの理由が知れたので。安心して怖いと思えます。」
「ふふっ、面白いですね。”安心して怖いと思える”か。奥深い。」
「バカにしてますね。」
「いいえ、全然バカになどしてません。寧ろ感銘しているくらいです。雪岱の作品の核心をついているかもしれない。」
「何でそう思うんですか。」
「それはたぶん次の展示を見ればわかると思います。」
「次?」
「ええ、恐らく次は新聞小説の挿絵でしょうから。」

そう言うと男は次の展示室に向かって歩き出した。

*** *** ***

(六)「遊戯菩薩」
 国宝の茶室「如庵」の室内を再現した展示を抜けると、いわゆる「雪岱調」の新聞小説の挿絵の原画が並んでいた。一足先に展示室に入っていた男は、ある作品の前で私を待っていた。この男と一緒に鑑賞したいわけじゃないのに、どうしてだか結局私は男の隣に立つのだった。

「どう思います?」
男は聞いてきた。それは、吉川英治の『遊戯菩薩』という新聞小説の挿絵として描かれた一連の作品だった。それぞれの場面がどういうシーンなのかは分からないけど、集団リンチに遭っているような場面や、主人公らしき人物が床に押し倒され、男に襲われそうになっている場面もある。

「多分物語のシーンとしてはすごく緊迫しているんですよね。ううん、その緊迫感はすごく絵から伝わる。でもそれなのに何だろう、淡々としてるというか、軽やかというか…」
「”安心して怖いと思える”作品と思いますけど、どうでした?」
「確かに、そう言われればそうかもしれない。何だろう、これって新聞小説なんですよね。毎日この物語の世界に入り込むはずなのに、どこか、というかどこまで行っても第三者というか傍観者として見ている感じがします。」
「雪岱調といわれている作品の魅力は僕はそういうとこだと思います。」

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「雪岱調って、結局どういう事なんでしょう?」
「ある程度技法的な説明はできるでしょうね。余白を活かした構図、時には背景を真っ黒にするなど白と黒のコントラストの強さ、それでいて人物は鈴木春信の浮世絵のような嫋やかな姿態、その線描は細く均一で繊細。無駄な描き込みを省き、建造物や街並みは直線の集合で構成される…だけどこの特徴を出すだけでは掴み切れない”核”のような部分は、あなたが感じる矛盾にあると思います。」
「矛盾?私、何か矛盾していましたっけ???」
「安心して怖いと思える、がまさにそれですよ。安心できるという心地良さがありながら同時に不穏さ、ミステリアスさ、寂寥感を感じさせる。時には暴力的な場面だってあるのに、血生臭いところがない。常に一定のテンポというか温度感をもつ。決して高くない温度で。そうした矛盾が成立しているところが僕は”雪岱調”の真骨頂だと思います。」

 そうして男は目を輝かせて作品を見つめた。不思議なことに、その目はとてもキラキラと輝いていたのに昏かった。男はすでに物語の世界に迷い込んでしまったように思えた。私は男の隣に立ち、食い入るように作品を見つめる男を、快く思うと共に怖いと思った。

*** *** ***

「この後は何か予定はありますか?」
展示室を出た時、男が話しかけてきた。特に予定はないけど、と言うと男は言った。
「今、日比谷公園の日比谷図書文化館で小村雪岱の別の展示をしていますが、良かったらご一緒しませんか。」
「はい、ぜひ。」

 思いがけない返事に私自身が驚いた。何でこの人と私が展覧会を一緒にハシゴしないといけないのか…。分からないけど、「雪岱スタイル」が心地よかったせいで、思わず乗せられてしまった。だけど、今日はもうちょっとだけこの気分に浸っていたかった。軽やかに寒気さえ感じるほどの冴えた線で、深い深いところに引き込んでいく「小村雪岱」の世界に…。



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