長髪 “男子” の葛藤。救ってくれたのは「ノンバイナリー」という言葉との出会い
短髪からの解放
わたしが通っていた高校は校則が厳しく、男子生徒は丸刈りに近い髪型にするという校則があった。
短い髪型が好きではなかったわたしは、親に散髪へ行かされる度に「せっかくいい感じになってるのに、また切らなくちゃいけないの?」と思っていた。
「中性的で可愛い髪型を試してみたい」その願いは、大学に入学するまでに実現できなかった。
2020年。わたしは生まれ育った中国・四川省から、大学に入学するために日本へ来た。新型コロナウイルスの影響で、授業は全てリモートに切り替わり、自粛のために外出することも少なかった。それをきっかけに、髪の毛を伸ばしてみた。
髪を伸ばしてみると、長髪の面倒な部分を知ることになった。シャワー後に髪を乾かすのには時間かかるし、夏になったら髪を結ばないと首周りが蒸し暑くなる。
それでも、長髪の自分は好きだった。フェミニンで可愛い格好をしたい時に髪を下したままにしたり、中性的な格好をしたい時に髪を結んだりすることもできるようになった。「これこそ、わたしのしたい格好だ」そう思えるようになり、日常がすごく楽しくなった。
葛藤に変わった長髪
しかし、翌年(2021年)の春休みに中国へ一時帰国した際、長髪を理由に不快な思いを沢山した。
地下鉄駅の男子トイレを利用する際に、「あんた間違えてるよ、女子トイレこっちだよ」と知らない人に注意を受けた。旧正月に親と一緒に行った温泉旅行では、脱衣所で髪を乾かしていると「お父さん、どうして女の人が入ってきたの?」という子どもの何気ない言葉が刺さった。母親の実家に帰省した時も、祖母と親戚に「男でも女でもない変人の格好やめなさい」と強く言われた。
気に入っていた自分の長髪は、中国への帰省以降、葛藤に変わってしまった。中国での出来事は、日本に戻った後の日常生活にも影響を及ぼした。
気がつけば、街を歩く人々の視線がすごく気になってしまう。電車で誰かと目が合えば、「見られているのかな...」と気になって仕方がない。
一番困っているのは、トイレを使う時だ。トイレに入る前に、中に人がいるかどうかを確認してしまう。長髪の自分が男子トイレに入ると、他の利用者は驚いてわたしをチラチラ見る。実際は誰にも見られていないかもしれないが、つい色々と考え込んでしまう。このような不安は、フェミニンな格好をしていると日に日にさらに強くなる。
オールジェンダートイレの使いにくさ
「(トイレを使うことを)そんなに気にしているなら、オールジェンダートイレを使えば?」
トイレでの悩みを友達に伝えた際、そうアドバイスをもらったことがある。通っている大学にはオールジェンダートイレを整備している建物が多く、利用できる機会は多い。それにも関わらず、わたしはオールジェンダートイレを利用することはめったにない。
オールジェンダートイレを使うと、「他の人と違うトイレを使う必要がある人間だ」という気持ちになり、自分は人と異なる異質な存在と感じてしまう。また、使用しているところを誰かに見られたら、「変な目で見られるのではないかな...」とも思ってしまう。
そもそもわたしは、男子トイレを使うことは嫌ではない。生まれた時の体は生物学的な定義で「男性寄り」のものであることに違和感を感じていない。ただ「マスキュリンな格好をしていない自分が、男子トイレを使う時に他の人に変な目で見られる」ことが不快なだけだ。
このような気持ちをどう定義すればいいだろうか?
トランスジェンダーではないけど、同じようなことで困惑している人は他にいるのだろうか?
「ノンバイナリー」という言葉との出会い
その不安は、「ノンバイナリー」という言葉と出会ったことで少しづつ解消されていった。
ノンバイナリー(日本ではXジェンダーという用語も使われている)とは、(身体的性に関係なく)自身の性自認・性表現に「男性」「女性」といった枠組みを当てはめようとしない人のことである。
大学のLGBTQ+コミュニティセンターの職員さんからこの言葉を教えてもらった。その後、自分でネットで調べていくうちに、ノンバイナリーとはまさに自分のことだと確信した。
「同じ思いを抱えるのは、わたし一人ではないんだ」
ノンバイナリーとしてのアイデンティティが形成されていくと共に、わたし自身も自分のあり方を受け入れるようになれた。
ノンバイナリーと自認している人の多くは、長い時間を経て、そのアイデンティティに辿り着くと聞いたことがある。自分の場合もそうだった。LGBTQ+の中では、比較的に可視化されている人とそうではない人の両方が存在している。性的指向に関してはゲイ・レズビアンとバイセクシュアルが比較的に可視化されている現状がある。一方で、性自認に関わるトランスジェンダーとノンバイナリーの人々は、LGBTQ+コミュニティの中でも周縁化されている傾向にある。
わたしも中学時代から自身をゲイと自認していたが、大学に入ってから「性的指向は男性に向くが、性自認は別に男性とは限らない」と時間をかけて気づいた。男女二元論の考え方の影響があまりにも強いため、それが自分の中に深く内面化されることに気づかないまま生きてきた。
「男」と「女」しか存在しないとする社会で、自分が「男」でも「女」でもないことを自称することは、長い間強化されてきた規範を自分の手で破ることになる。規範に沿わない生き方は、人々に祝福されない。規範に沿わずに生きていくことは、自分でいばらの道を進むことだ。
それでも、わたしはありのままの自分で生きていくことに決めた。性自認について悩んで苦しまないよう、誰でもありのままの自分で生きていけるよう、わたしは仲間と共に道を開いていく。
執筆者:袁盧林コン/Lulinkun Yuan
編集者:原野百々恵/Momoe Harano