目に見えなくても、なにも変わらないわけじゃないよ
有給消化中だけれど、仕事をしなくなってから2週間が経過した。
この2週間は、ゆっくり休んだり勉強したり掃除したり、それなりに充実していたように思う。
そんなまったりした時間を過ごしてみて思ったことは、気持ちの余裕やひと息つく時間の大切さだった。
仕事をしていた時は、仕事するか勉強するかしかしていなかった。
会社員以外にも日本語講師の仕事をしていたこともあって、普段の英語とノルウェー語の勉強のほかにも勉強することがあった。
会社行く前に勉強して、昼休憩の時にnoteを下書きして、もうひとつの仕事の時間に合わせて家に帰って仕事して、合間に勉強を埋め込む。
寝る時間も遅くて、友人から連絡が来てもだいたい何時に連絡来ても返信ができる状態だった。
そんな生活リズムなので、普段の陽気なキャラが相まってか毎晩飲み歩いている風に見られていたけれど、毎晩机にかじりついていた。
そんな毎日を過ごしていく中で、したいことをしている気持ちではいたので大きなストレスはなかったけれど、急にnoteスランプがやってくる。
書いてみても、なんとも表面上だけの文字が綴られている感覚になって、自分で読み直してもそこに熱量や愛情が注がれていない感じがした。
今の生活をしてみて思うことは、圧倒的に時間が足りなかった。
この時間というのはnoteに向き合う時間とか、インプットする時間ではなくて、なにかを感じたり考えた時に自分の中でこねたり寝かせたりして浸透させるための時間。
カレーが寝かせたあとに味がぐっと深みが出るような、煮物が一度冷ませた時に味が浸透するようなそんな感覚。
気持ちの余裕やひと息つく時間から生まれるものってある。
もちろん、インプットを怠ってしまっては内側に何もないこともあるので、アウトプットにもつながらないんだけど(1日中ゲームして過ごした日は本当になんの言葉も生まれなかった…)、ささいなことでも自分が動くことでこころも一緒に動いていく。
今はまだ、新しく座る石を探している最中なんだけれど、いまの生活をしていく中で見つけていける気がしている。
なにかを継続をしていくためには、継続していきたいと思える『欲求の継続』と継続していくことができる『可能の継続』。
このふたつが相性のいい関係性でいられるところが大切に思うので、これからより深く探求していく時期になりそう。
「毎日筋トレしたい!」と欲求があっても、時間がないとか体が不調の場合は可能ではない。
逆に言うと、時間はあるし場所もある「毎日筋トレができる」という可能な状況でも、したいと思っていなかったら継続していくことは難しくなってくる。
今日Twitterで英語勉強宣言をしたけれど、それも欲求と可能が相まっていると感じている。
気持ちの余裕やひと息つく時間を作り出すことだって、正直簡単ではないけれど、作ってみたらすごく価値がある時間だってことに気づけた。
ずっとスケジュールを埋めることが癖になっていたからこそ、スケジュールに余裕をつくる習慣を身につけていきたいな。