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あったかココアのある部屋

 今日も残業。もう定時という概念は頭の片隅に追いやった。へとへとになりながらも、あるものを楽しみに今夜もがんばっている。厚手の上着に身を包み、底冷えのする室内で一人、手を動かし頭を回す。

 やっときりがついた。明日は休みだから、職場の戸締まりのため、念入りに見回りをする。
 しーんと静まり返った廊下。もう社屋には私一人。音のない世界に取り残されたような気持ちになりながら、ゆっくりと歩みを進める。階段の窓から向かいのビルを見やると、明かりが点いている。私だけじゃない。今日もおつかれさまです、と伝わらない声を零して、見回りを再開する。

 施錠を終え、駐車場から外へ出ると、冷たい雨が無情にも頬を打ち付ける。慌てて折り畳み傘を差しながら、薄暗い街灯の下、自宅を目指して夜道を急ぐ。

 マンションのエレベーターの前に着く頃には、腕時計の短針がてっぺんを越えていた。エレベーターの扉が開く。乗り込むと、独特の重力によるふわっとする感じがして、未だに慣れない。階段しかなかった前のアパートから引っ越して数ヶ月。一人暮らしには少し家賃がきついが、日々の貴重な癒しの時を、少しでも快適な場で過ごしたくなり、思いきってマンションの1DKの一室を借りた。
 チーン。
 エレベーターが目的の階に着いた。寝静まった部屋の前を、そろり、そろりと、音を立てないよう歩く。自室への扉の鍵を開けようと手をかける。

 ガチャ。
 え…? 開いてる。朝、閉めたはずなのに。最近寒くて出るのがぎりぎりになるから、開けたまま出てしまったのだろうか。

 おそるおそる、部屋に入る。とりあえず手洗いうがいだけ済ませ、部屋へ向かう。
 暗く静かな部屋が、なぜだか暖かい。エアコンも消し忘れた? エアコンを見ると、ランプが点いている。
 部屋の明かりを点けようと、電気に手を伸ばそうとする。

 カタッ。
 え…? 誰か、いる…?

 身が竦む。どうしよう。警察に電話? いや、まずは外に。でも、足が打ち付けられたように動かない。

 カチッ。
 明かりが点き、見知った顔が目の前にいた。
「おかえり。」
「え? ゆう? どうしたの?」
「サプライズ。驚いた?」
「もう~、心臓に悪い…本当に怖かったんだから…警察呼ぶところだったんだからね。」
「ごめん。そんな怖がると思わなかったんだ。本当に、ごめんな。」
「もういいよ。」
「ありがとう。さあ、座って。」
 あ~、びっくりした…

 キッチンに向かった彼が、カップを持ってやってくる。
「遅くまでおつかれさま。これ、好きだよな。」
 彼が淹れてくれたのは、私の平日夜唯一の楽しみ、ココアだった。
「どうして?」
「喫茶店でいつも、ココアを頼んでるから。」
「そうだけど。そうじゃなくて、何でここにいるの?」
「昨日、何の日か、忘れちゃったかな? 忙しいもんな。」
 カレンダーを見ると、昨日の日付に「一年記念日」と記されていた。
「ごめん、忘れてた。昨日付き合って一年だったね。」
「いいよ。こっちこそ、平日夜に押しかけてごめん。疲れてるだろ、それ飲んだら早く休んで。」
「今日は休みだから、ココアゆっくり飲もう。優の分、お湯残ってる?」
「うん。」
「待ってて。」
 キッチンへ向かい、彼のココアを淹れる。お湯を注ぐと、甘い薫りが鼻腔をくすぐる。
「おまたせ。」
「ありがとう。」
「こちらこそ。いただきます。」
 カップに口をつける。あったかい。自分で作るより少し粉が多くて、濃い甘さが口いっぱいに広がる。
「おいしい…」
「ふは。やっぱり恵未えみは、ココア飲んでるときいい顔するなぁ。」
「だって、おいしいんだもん。」
「そうだな。俺も、うまい。ありがとう。」
「私こそ、ありがとう。昨日、ごめんね、忘れてて。」
 いつも、温かい心で寄り添い、包んでくれる彼。連絡をくれるのも、約束を持ちかけてくれるのも、いつも彼の方だった。私はその優しさに甘えてばかり。昨日は、よりによって大事な日を忘れてしまっていた。罪悪感がふつふつと沸き起こる。
「もう、俺のためにそんな顔しないで。俺はさ、恵未のさっきみたいな顔が見たかったんだ。でも、辛いなら無理しなくていいんだよ。一人で堪えなくたっていい。さあ、冷めないうちに飲もう。」
 彼に促され、ココアを啜る。彼の言葉ととろけるような甘いあったかいココアが、罪悪感をゆっくりと溶かしていく。
「今日、リベンジさせてほしい。」
「疲れてるだろ。ゆっくり過ごそうよ。ごはん作ったら帰るから。」
「そんなこと言わないで。私が、優と過ごしたい。一日遅れの記念日を、私と過ごしてくれない?」
「ずるいなぁ。そんな顔されたら、断れないよ。」
 彼が、困ったように笑う。私は今、どんな顔をしているんだろう。必死な顔? 甘えた顔? どっちもだろう。愛想を尽かされたくない。ココアと同じくらい、私にとって、なくてはならない存在になっているから。
「ごはん、食べてきた?」
「軽く。」
「おなか空いてたら、何か作るけど?」
「ううん。もう、おなかいっぱい。」
 本当は、胸がいっぱい。それは、いつもココアで満たされるときの比ではなかった。

「じゃあ、そろそろ。」
「そうだね。」
 二人分のカップは、いつの間にか空になっていた。彼がコートに袖を通す。名残惜しい気持ちで、彼を見送る。
「今日。起きて、もし本当に疲れがとれて、どこかに行きたいって気持ちになったら、電話して。連れて行きたいところがあるんだ。」
「わかった。」
「じゃあ、おやすみ。」
「おやすみなさい。」
 交わした口づけは、ほのかに甘いココアの味がした。

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