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一番になりたいけれど、めざすのはそこなのか?

 私がこれまでにnoteの公式コンテストでかろうじて棒に掛かることができたのは、「#未来に残したい風景」コンテストだけである。

▼note×サントリー天然水の森「#未来に残したい風景」コンテスト、最終選考作品

▼審査通過作品

▼感想をいただいた記事

 感想記事で通知をいただいたとき、本当にうれしかった。受賞はできなかったけれど、最終選考に残れたんだ、とマガジンを知って自信になった。プライベートでいろんなことがあり、noteとの向き合い方を模索している最中だったので、とても思い出深い出来事で、「サントリー 天然水の森」のWebサイトを制作されている"わたし"さんには本当に感謝している。当時つぶやきでしかこの感動を伝えておらず、二年越しのお礼になってしまうことをここに謝罪しておきたい。

 さて、私はもともと自己顕示欲が強い子どもだったと思う。五歳下の妹が生まれて、その傾向が高まったのは確かだ。幼稚園児の頃からずっと人間関係に悩み、人とうまくやっていくことはできないかもしれないと思っていた私は、だからこそ、何かに秀でて目立ちたかったのだと思う。特に、母に褒められたかった。
 まず、勉強をがんばった。がんばれば結果の出る勉強は楽しかった。でも、両親は勉強で一番になるより、人としてのよさに重きを置いていて、そこでいっぱい失敗をしたので、勉強だけでなく自分磨きを少しずつするようになった。大学生、社会人になりやっと友人ができたのは、高校生までに重ねてきた失敗をバネにして培った過去の努力の結果だと思う(まだまだ足りないことも自覚している)。
 他にもいろいろなことをがんばった。母が字を綺麗に書くことを大切にしていたので、硬筆をがんばった(毛筆はがんばれなかった)。金賞を取り(県内だけで新聞二面分くらい金賞の人がいる)、新聞に載り、市民ホールに展示されるのがうれしかった。あいさつもがんばった(大人になり、社会性に悩むうちにうまくできなくなったけれど)。作文や創作もがんばった。新聞に投書したり、学校の課題作文や読書感想文、人権標語、俳句、読書感想画など。受賞できたものは、一番よくて優秀賞だった。ピアノや水泳をがんばった。水泳は平泳ぎまでで断念し、ピアノは九年続けてコンクールには出ず、合唱コンクールのクラスの伴奏を務めるに留まった。興味のあることには挑戦した。挑戦させてくれる家族がいた。バリアフリーマップ作りに年齢も地域もバラバラの子たちと取り組んだり、毎夏に地元新聞社が集める子ども新聞記者になって大葉農家を取材したりした。小学校の校長先生の目に留まり、全校集会で前に立たされたのはかなり照れくさかった。高校の部活もがんばった。合唱で九州大会金賞(全国大会には進めない、いわゆるダメ金)が最高だった。
 いろいろやったけど、どれも一番にはなれなかった。

 私は、一番になってみたかった。いつか一番になりたい。noteで書き始めたときも、何かのコンテストで受賞することを目標に、いろんなコンテストに挑戦してみようと参加した。でも、未だに一番には届かない。
 noteで書き、また多くのクリエイターさんの作品や記事を読み、いろんなことが足りないことに気づかされる。受賞される方々は本当に弛まぬ努力を惜しまずされてきた方々ばかりだし、その方々の作品はとにかく面白い。私には圧倒的に努力も経験も足りない。がんばればそこそこにはできるようになっても、そこから先の針に糸を通すような作業ができるようになるほどの努力はまだできていない。インプットもアウトプットももっと必要だ。
 noteにいると、本当にいろんな人に出会う。置かれた状況も経験値もnoteとの向き合い方も様々で、その方々と交流したり、作品を拝読したりするなかで、また自身を取り巻く環境の変化も相まって、私自身のnoteとの向き合い方も日々変容してきた。バイオリズムによるところもある。
 その変化を経て今文字に残しておきたいと思う自分の創作の方針は、日々を大切に生きて自分を磨き、伝えたいことが伝わるように努力し、伝えたい人たちの思いを受け取ろうとすることだ。
 日々を大切に生きるということは、仕事はもちろん、プライベートを大切にするということだ。充実させる、なんてキラキラしたことじゃない。私は何を隠そう、生活が著しく苦手だ。生活が苦手とは? と思われるかもしれない。たとえば、郵便受けを放置する。床に物が散らばっていても、そこを避けて生活する。未だに去年引っ越したまま開けていない段ボールが多数ある。水回りの掃除を後回しにする。社会人一年目までの五年間の一人暮らしは社会活動が多忙でなくギリギリもっていたが、社会人二年目以降は妹との共同生活で何とか成り立っている。例えるなら、私は綾瀬はるかさんみたいにはかわいくない雨宮蛍のような干物女で、妹はぶちょーだ。恥ずかしながら、こういう人間なのである、私は。引かれる覚悟で書いている。仕事は仕事とがんばるし、完璧主義なところがあるので全力でやるが、その分生活を置き去りにしてしまうのだ。(繕えているかはさておき)noteで繕っている私と実際の私には大きく乖離があって、ゼロか百(実際は完璧は無理なので最大八十くらい)かという性格で、百には一生できない生活というものが苦手である。でも、noteに限らず何かで活躍されている方は、生活がたとえ苦手でもがんばっている方々だと思う。だから、泥臭くも魅力的で、その魅力が作品に滲み出るものだ。エッセイは特に顕著だ。手付かずのものに取り組むために重い腰を上げるのがすこぶる不得手な私だが、生活を営む努力をしたい。生活優先で、生活が崩れる前に、趣味からはいったん離れることも辞さない(実際に過去noteをお休みしていたときはそうだった)。
 伝えたいことが伝わるように努力し、伝えたい人たちの思いを受け取ろうとするためには、アウトプットだけでなくインプットもしていきたい。note記事だけでなく、あらゆる作品や、外での経験も含めてだ。私が子どもの頃や学生時代にあんなに書くに事欠かなかったのは、両親がいろんな経験をさせてくれて、大学生時代にはそのときしかできないことをやってきたからだ。その経験の蓄えで書いてきたしこれから書きたいこともあるが、社会人になってめっきりインプットが減り、書く文章のオリジナリティに限界を感じるようになった。だから特に、エッセイが書けなくなったんだと思う。特別な経験が必要なわけでは決してない。ただ、毎日毎週同じことの繰り返しの日々では、考えも広がらないというものだ。余裕が出てきたからこう思えているし、余裕を持つために無理は禁物だが、またインプットを楽しみたいと思う。

 では、その先にある、めざすものは一番なのか。隠さずに言えば、やっぱり一番にはなってみたい。でも、書くことでということでいえば、一番が目標であってはならない。これはたまたまとある作品のテーマを練るなかで気づかされたのだが、一番は良い仕事を積み重ねた先にある結果で、一番になるためにがんばるだけでは、一番を取ることはできないし、仮に取れたとしても取り続けることはできないはずだ。
 前職で、メイン職種は異なるが、兼業で営業をしていた。営業には向いていなかったが、営業経験を経てたくさんの学びがあった。お客様と直に会い、お客様が接する人たちを目の当たりにしながら、実際に自社商品が使われる様子を見て忌憚のない意見を聞くことで、私にしかできない営業を模索し、それをメイン職種での仕事にも生かした。担当地区が少ないからこそできた、何度も足を運びヒアリングを重ね最適なものを提案していく四年半のなかで、二度営業目標を達成できたが、それは私だけの力では決してない。お客様との関係を構築してお客様に少しずつ信頼していただけるようになり、時にお客様に多くのことを教わり、同じ営業部の仲間と切磋琢磨し、お互いに効果的な手法や最新情報を共有し合って、辛さを分かち合った。たくさんの方々のおかげで、私なりの営業スタイルができていったし、この経験があるから気づけた社会人生活に大切なことがあった。もちろん目標達成をしたかったし、会社の業績に関わるのでそれをめざしたが、営業を必死にやっているときに目標はちらついていなかった。もちろん、年度間際は特に気にするし、毎日帰社したら現時点での売上と目標達成度と必要な売上金額・数量はチェックし、顧客情報の整理をしていたし、定期的に分析した。ただ、目の前のお客様と対峙するとき、対話を通して、ベストなうちの商品、競合しない他社商品を紹介すること、他のお客様との話から解決に結びつきそうな情報を、頭のなかから、営業ノートから探し出して提供することに全力を注いでいた。自分の知識だけでは足りないときは持ち帰り、詳しい商品担当者や他の営業担当者に教えを請うた。私が営業をしていたとき、メイン職種の比重が高かったため、一番担当地区が少なかったのだが、それでも目標達成をするとベテランの先輩方からも認められるようになった。それにより、円滑なコミュニケーションがとれ、よりよい営業に結びついたと思う。
 これを創作に置き換えるとどうだろう。一番になりたい。この気持ちは大切だと思う。生半可な努力では一番になれないので、覚悟をするために胸に留めておきたい気持ちだ。でも、一番になるために、一番をめざそうとすべきではない。日々を大切に生き、インプットをして、アウトプットの練習もして、反省して勉強して、読むことで主題をしっかりつかみ、書くことで主題をしっかり伝えられるようになること。しっかり伝えたい主題を持つこと。そして、読者の立場に立ち、読者が貴重な時間を割いて読んでよかったと思える、私が伝えたいことがしっかり伝わる、そんな作品を書き上げて公開すること。これらが大切なのだと今は思っている。
 今回、下記の作品で創作大賞に応募した。

応募しておいて難だが、まだ受賞できる域には到達していないと痛感する。どの作品にも圧倒されてばかりいる。推敲を重ね、直すほどに、拙さに気づかされる。冗長さ、描写の甘さ・取って付けたような描写、バランス、カテゴリーとの一致の弱さ、などなど……。あまり羅列すると言い訳がましくなるのでこれくらいにしておきたい。とにかく、未熟だ。でも、今回、図らずも創作大賞に挑戦するなかで、今の思考を整理したり、実力を測ったり、言語化するなかで自分でも気づいていなかったことに気づけ、現在地を確認できたので、一番への第一歩は踏み出せたのではないだろうか。少なくとも、私のモチベーションは上がったし、意識も変わった。まず、二万字の壁を越え、締切までに応募要項を満たす作品を応募できた。初めて計画連載をして、初めて三万字を書ききった。時間をかけて、推敲を重ね、何度も読んだ。伝えたいこととエンタメを両立させようともがいた。だからこそ、気づけたことがあった。改めて、他のクリエイターの方々のすごさを知った。ご感想をいただけてとってもうれしくなり、客観的な視点からの指摘から学びがあった。拙いし反省点も多いので、これは次のコンテストまでに昇華できるように、生活をきちんと営むこと、いろんなものを読み、観て、聴いて、経験し、いろんな人と話し、いろんな意見を知り、世界や日本の現状と真摯に向き合うこと、自分を磨くことを少しずつがんばりたい。具体的なあとがきは別の記事にしたためたい。
 そして、良い作品を書くためには、私の力量では時間が必要だと思った。間に合わなかった、今伝えたい、私ならではのストーリーを、じっくり練り上げてエンタメとして昇華させる。これが、今の目標である。

#エッセイ #noteとの向き合い方 #創作

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