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残したい風景

雪化粧い肩寄せ合うや山親子
ゆきけわいかたよせあうややまおやこ

 これは、今日、車窓越しに切り取った風景。手前の土手の向こうには川が流れている。昼過ぎには雪も一旦解けていたので、貴重な一枚となった。
 この三つ並ぶ山が好きだ。私の実家は別の山の麓近くにあるのだが、この写真に写る山が並ぶ景色を見られるこの場所が好きだ。そして、その山に雪が積もると、とても美しい。一番左手の「由布岳」は豊後富士の愛称でも呼ばれるが、この雪化粧した由布岳はまさに豊後富士にふさわしい姿である。この冬景色にしみじみと趣を感じる。

 日本には、四季がある。しかし、春夏秋冬、四季折々の景色が眼前に広がり、移ろう様を目撃できることが、当たり前ではなくなってきている。そのことに、そろそろ本格的に向き合わなければならない時が来ている。
 SDGsが叫ばれて数年。新聞や各企業の広報誌、教科書にも17の目標が示されている。後9年後の2030年に向けてのこの目標。一見「当たり前」の言葉の羅列に見えるけれど、この「当たり前」を私たちは普段どれほど意識して、そのために動いているだろう。
 私に限っていえば、恥ずかしながら自分の日々の生活にいっぱいいっぱいで、環境や人々の営みの持続可能性を考え、実行に移すことはあまりできていない。もちろん、こんな風に言われなくても、昔から環境や人々のために何か実践されている方々が多くいる。私はそういう人たちを心から尊敬している。でも、余裕がなかったり、できることを知らなかったり、自分の生活との結びつきをあまり感じられなかったりして、なかなか動けない人もいると思う。私のように。
 だから、こうして易しい言葉で目標としてあえて掲げ、そのために「できることをやっていこう!」と呼びかけられると、「あ、そうだったな!」と思える人もいるのではないだろうか。言われなくてもやらないといけないこと。でも、それができなくて、今、温暖化だったり、ごみ処理の問題だったり、化石燃料の問題だったり、身近な暮らしに直結する問題が頻発し、向き合わざるを得なくなっている。

 堅苦しくなってしまったが、身近なことに置き換えて考えてみたい。たとえば、山の景色を守りたいとき、山や森林を大切にするってどうすればよいのだろう。植樹? 間伐? 昔、家族で植樹体験をしたことがあるが、簡単に継続できることではない。植えて終わりではないから。まして、間伐は素人にはできない。「割り箸を使わない」はどうだろう? 実は、割り箸は間伐材が使われ環境にやさしい商品だという話もあるが、輸入品は割り箸のために伐採しているからよくないという話もある。
 ちょっと調べて「これをやればよい!」ということがすぐに見つかれば、誰も苦労せず、簡単に環境を改善できる。でも、そうではないからなかなか維持は難しい。山一つとってもそう。けれど、調べて、何か一つでも、これなら自分にも続けて取り組めるということを見つけて、継続していけば、そうする人が増えていけば、少しでも長く、残したい風景を大切にできるのではないか。

 「自然を守ろう」「環境を大切に」ということを、綺麗事で言いたいというより、ずっとこの景色を味わい、愛でていられるといいなという気持ちでいる。私が今年感じ入った文章の一つを少し引用したい。

いま私たちにできること、そして必要なこととは、里山文化を再生したり振興したりして「手を入れる」ことではない。むしろ文書や映像などに忠実にそのありようを記録すること、つまり、ただひたすらに「見る」ことなのではあるまいか。こんな自然があったという「記録」は、人間の自然観が移ろうとも、いや移るであろうからこそ、貴重な「記憶」となり新たなイメージの母体となる。「記憶」は私たちの自然への「思い」を決して裏切るまい。私たちの「まなざし」の中にだけ、私たちにとっての自然は存在する。私たちはただただ「見」、そして「覚える」べきなのだ。それが無くなったとき、哀しむことができるように。日本の美しい里山の風景を美しくも悲しい記憶として抱きしめるために。

佐藤卓己『メディア社会―現代を読み解く視点』(岩波新書)

 変わることは変えられないし、自然と共生しながら、人々は環境を少しずつ変え、営みが続いてきた。なんでも昔がいいというわけではなくて、今、残したい風景を抱きしめていたい。まだ哀しむのは早いのではないか。今なお俳句に詠まれる素敵な風景を、目を引く写真に収められる美しい風景を、これからも少しでも長く見続けられるように。いつまでも、あの山々のような風景を残したい。そのためにできることを、小さなことを一つずつ、私なりに見つけていきたい。

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