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今日は、ちょっぴり特別な日。
と言っても本当にちょっぴりで、今年初めて取れた有給休暇で、八年ぶりに髪をばっさり切ったのだ。
何があったわけではない。ただそういう気分で、他でもない自分のためにボブにした。

三十センチ近く切るのは、美容師さんもわくわくするみたい。
「こんなにいいんですか。」
「お願いします。」
「とびっきり素敵に変身させちゃいますね。」
しばらくして、目を開けて鏡に映る自分と向き合うと、その言葉を裏切らない仕上がりに心が踊った。
「いかがですか。」
「とってもいいです!」
「よかったぁ。よくお似合いですよ~。とってもいい!」
「ありがとうございます!」
初対面のふたりで盛り上がった。

***

美容院を出た景色は、さっきと変わらないはずなのに、違って見える。
誰も私の変化など知らない。私だけが、このちょっぴり特別な気分を抱き締めてここにいる。
自然と頬が緩むのを抑えきれないまま、足取り軽く、私鉄沿線を歩き出す。

いつもは明るい時間に外にいることがない。平日は残業明けの真っ暗闇にぽつんとひとり家路を急ぐし、休日は起きたら夕方だ。たまに出かけようと支度をしても、外に出るのはいつも夜。
平日朝だって、いつもぎりぎりに家を出て全力疾走しながら会社へ向かうだけ。
こんな風に、淡い空の下ゆったりと流れる優しい時間を味わう、これもちょっぴり特別である。

目の前に映る空が、刻一刻と姿を変える。
雲が流れ、形も変わり、うす紅く染まっていた空は、しだいに藍色に溶け込んでいく。
道行く人の姿は朧気で、それが私には心地よい。目が合うのが苦手でいつも下を向いてしまう私も、この誰そ彼時は堂々と前を向ける。
大きなランドセルを揺らしながら走り去る子の影が長く伸びる。日が短くなってきたから、慌ててうちに帰っているのかな。

***

しばらく行くと、知った道に差し掛かる。
しかし、道に咲く花とか、こんなところにお店があったんだとか、いつもは気づかないものを新発見して、心が沸き立った。
同時に、見慣れた景色を見つめていると、そこに乗り移った感情が流れ込んでくる。

帰り道に好きな先輩を見かけると、全力で追いかけて夜道を共にした。
「出張中、話し相手がいなくて寂しいんだよね。」
「じゃあ、私が相手でもいいですか。」
仕事で使う、社用とは別の個人アドレスから、その週にあった出来事や見つけたものの写真を送っていたら、プライベートの連絡先を交換する仲になって。
ここの夕焼けが綺麗で、とっておきの一枚を送ったなぁ。東北に長期でいらしてたとき、あそこの桜を撮って一足先に訪れた春をお裾分けしたっけ。普段撮らない写真を何枚も撮ったなぁ。

「シチューが食べたいんだけど、スーパーにもコンビニにもなかなか売ってないし、このへんのお店でも出されてなくてさぁ。」
その言葉をきっかけに、この公園で待ち合わせて、手作りのシチューを渡したなぁ。人参を花形に切ってみたり、栄養を考えて具がゴロゴロのかぼちゃシチューにしたんだよね。
「おいしかった。ありがとう。」
その声が聞きたくて、タッパーを口実に会いたくて。

このコンビニ前で自転車でこけて、恥ずかしい上にとても痛くて病院に通ったなぁ。その翌週が初デートで、下ろし立てのワンピースを着たのに包帯が痛々しくて、開口一番「足大丈夫?」って言われったっけ。

次のデートに張り切って、前ここにあった美容院で初めてパーマをかけたら、「今日寝坊した?」って言われて顔から火が出そうになったりしたなぁ。

告白しようと先輩を向いたとき。
「大事な話があるんだ。」
息を呑む。
「俺、転職して東京に行くことにした。今までありがとう。」
社会人になって初めての失恋は、このイタリアンレストランの前だった。

***

立ち尽くしている間に、夜の帳が下りた。
見上げると、一番星が瞬いている。
今はもうずいぶん懐かしい思い出を胸に刻み、また歩みを進める。

「あれ、なっちゃん?」
「ゆきえさん!おつかれさまです。」
「髪めっちゃ切ったね。似合ってる。休日ゆっくりできた?」
「はい。久しぶりに美容院に行って、帰りながら思い出に浸ってたらゆきえさんにお会いしました。」
「え、なになに。聴かせて。」
「たいしたことじゃないですよ。ゆきえさんといつもこの道を共にしたなぁって。」
「そうだね。田島くんも一緒に三人でごはん行ってたよね。懐かしいなぁ。」
「そんなこともありましたね。田島さん元気にしてますかね。」
「あのリモート飲み以来連絡とってないわぁ。あの頃まだマスクが当たり前だったよね。やっと落ち着いてよかったなぁ。田島くん、元気だといいね。」
「私もです。誰もかからなくて本当によかったですよね。今も元気だといいですね。」
「うん。今日早いしさ、休日だけど、もしよかったら」
「ゆきえさん、今からどうですか。」
「いいの?」
「ぜひ!」
「やったー!じゃあ、いつものとこ行こっか。」
「はい!」

しばらくお預けになっていた、会社で一番仲良い先輩とのごはん会。
数年経ってやっと解禁されたのが半年前。
先が見えなかったあの頃、いつもよりちょっと足を伸ばして一駅先まで一緒に帰っていた。

人生いろいろあるけど、夜はいつか明け、朝がくる。
簡単に乗り越えられないことも幾度となくあったけど、手を繋げば解決できることもある。
私が動けば、変われば、変えられることもある。
そう実感できたとき、この先にどんな道が待っていようと、壁が立ちはだかろうとも、歩みを止めずに進み続けたいと思えたのだ。

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