書く読者のあなたに愛札(あいさつ)を
創作大賞に参加されたみなさん、遅ればせながら、改めて本当におつかれさまでした。
気づけば締切から1ヶ月以上経ち、応援期間の終わりから1ヶ月。まだ読みきれていない、感想をお伝えできていない作品が膨大にあり、創作大賞応募作品とどう向き合おうかと日々思いながら、少しずつ読んだり書いたりを進めている。本当に亀の歩みで。
そんななか、どうしてもご紹介したい記事についてあなたに届けさせてほしい。
上記2記事、ぜひ創作大賞に本気で参加されたみなさんにお読みいただきたいなと思った。
この文章はすごい。読者であるすべての書き手に本気で向き合って、めちゃくちゃ時間も手間ひまもかけている。手塩にかけて育てて送り出した本気の文章だとビシバシ伝わった。伝える責任を実践しなければならない。私も良いものを書く努力をしよう。
1作目を読んでそう思った。感想を書いて2作目をお贈りいただき、仕事終わりに早速2作目も読んだ。
大変失礼ながら、読了後すぐ、23時過ぎという社会人として常識を欠いた時間に、ご本人にお礼のDMを送ってしまった(本当に申し訳ございません)。
有料noteなので、具体的な大切なメッセージの引用は差し控える。代わりに、私が受け取り咀嚼した私なりの言葉で簡潔に綴りたい。
今回も、前作同様、いや、前作以上にひたむきに書き手である今作の読者に向き合われている。そして、実際にその書き手が書く作品を読む方々へ最大限の敬意を払うべきだと、誰よりすべての作品の読者に対して愛に溢れている。思いを遣る。心を寄せる。その書き手にとって大切な姿勢を、この作品自体が、作者自身が全身全霊で体現されていた。
私も応募した「なぜ、私は書くのか」コンテストの中間選考結果が先ほど発表された。その中間選考審査員である、主催者のマネージャーを務めるジャスミンさんが、上の記事のなかでこう綴っている。
主催者の藤原華さんは、当たり前かもしれないが、先の2記事のなかでこれを実践され、記事全体を通して読者である書き手に伝えてくれていた。
書く人には誰しも、「書きたい」という衝動に駆られるほどの伝えたいメッセージがあると思う。でも、そのメッセージを「届ける」工夫を凝らして、届ける相手に敬意と感謝と祈りを込めて書き上げられる人がどれだけいるのだろう。私自身はどこまでできていただろう。独りよがりになってはいないか。少なくとも、創作大賞に応募した時点では、いろんな意識が全然足りていなかった。
また、中間選考審査員のジャスミンさんはこうも綴っている。
主催者の藤原華さんは、下のお手本作品のなかで、書籍編集者をされていた黒木郁さんが書かれた記事を引用し、創作大賞の審査員について下記のように綴っている。
審査員の大変さは計り知れない。多忙で疲弊しているなか、膨大な時間をかけ、脳の疲労と感情の起伏を経験しながら応募作品を読んでいかなくてはならない。そんななかで、要項を満たしていないどころか、傷つくような言葉や内容が書かれていたら。ただでさえぼろぼろになりながら向き合って苦しんでいる審査員が、そんな文章に触れてしまったら。想像するだけで涙が出てきてしまった。自分が審査員だったらそんなの耐えられない。どれだけ心を痛めて身を削りながら審査をされているのだろうか……。
そして、それは審査員だけではない。作品を読む読者は、何かしら背景を抱えてその作品を読もうと決めて読み進める。興味のあるタグでたまたま出てきてクリックした人。タイトルやあらすじに興味を持って読み始めた人。好奇心に溢れた人。疲れを癒したい人。悲しみ苦しみを忘れたい一心の人。何か救いがあるかと祈るように読む人。さまざまな動機をもって読む方々の精神状態を、書き手は想像し、責任を持って書かなくてはならない。
私は応募作のなかで書いた。
プロじゃないなんて関係ない。些細な一言で、受け取った人が傷ついて悲しい末路をたどることがある。それは、書き言葉だけでなく、話し言葉であってもだ。
言葉を司る人間である以上、責任を持たなくてはならない。
それは、過去の自分の失言に対する自分への戒めとして忘れずにいようと気をつけ、気をつけても失敗してしまう私に、その度に自分を叱りながら投げかける言葉だ。
一度口にした、文字にした言葉は取り返しがつかない。
私自身、過去に傷つけられた言葉を、10年以上経っても忘れることができない。でも、そんな私も傷つけてきてしまったし、傷つけたことに気づかないままきてしまったことだってあると思う。自分が痛みを感じてやっと気づく鈍感な私だから、私は常に自分をアップデートしようと努め、それを実行しなくてはならない。
藤原華さんは、応募者に次回受賞してほしいと本気で赤裸々に普段知り得ないことを余さず書き尽くし、全身全霊で責任をもって愛を込めて届けてくれた。
ジャスミンさんは、もう二度と審査員なんてやりたくないと思いながら、批判を覚悟のうえで「落とした理由」を最大限の配慮と敬意をもって届けてくれた。
おふたりとも、創作大賞、「なぜ、私は書くのか」企画応募者への愛に溢れていた。そしてこれは、今後文章を書く方々にもぜひ届いてほしい、だから、これは該当記事へのコメントではなく、記事で感想を書かなくては。精一杯届けようと書き始めた。
リンクを掲載したこれらの記事は、愛のこもった、書き手への守り札となる作品だと私は思う。書くたびに綴られた言葉の一つ一つを噛み締めながら、生々しい思いを受け取った読了後の感情を忘れずに、これからも書いていこうと思う。
✍️
あとがき
創作大賞に応募して以降、前以上に「書く」ことに向き合うようになり、またあらゆるクリエイティブ作品への思いが強くなった。特に、昨年末からずっと楽しみにしていた『ラストマイル』を観て以降、仕事をしているとき以外はもう感情を抑えきれない。
「なぜ、私は書くのか」。
この企画を知ったのは、少し記憶があやふやなのを許してほしいのだが、多分この記事を書いた後だと思う。
なぜかは全然わからないのだが、この記事に、企画主催者の藤原華さんがスキをしてくださったのだ。それがきっかけで企画を知り、今、この企画に応募しなくてはならないと思った。来年の創作大賞に向き合うため、前に進むために。
それから締切ぎりぎりまでこの企画に向き合おうと努めた。
華さんの書かれた企画記事、お手本作品に加え、今回最初に引用した記事を読み、本当に目から鱗がぼろぼろ落ちた。私がいかに野生のまま書いていたかを身につまされた。
余談だが、子どもの頃野生児と言われていた。蛍だけでなくトンボやセミ、アメンボを素手で捕まえたり、野苺を傷だらけになりながら籠いっぱいに採ったり、公園で木に登ったり、秘密基地を作ったり……。大人になってもトンボを素手で捕まえたとき、「さすが野生児健在やな」と母に笑われ、別記事で以前掲載したように写真まで撮られた(虫が苦手な方もいると思うので今回は割愛する)。
そういう意味での野生ならともかく、書き手としても野生味溢れていたのだ。よく言えば伸び代がある。でも、既に読んでくださったみなさんには、全5話を計1時間以上かけて未熟なものを読ませてしまったことを反省している。
この企画に参加し、下記記事に書いたように過去の自分の作品も読み直して、「書く」ということ、「貴重な時間を割いてでも読んでいただこうとする」ということについて向き合うことができた。
自分自身の書く力を磨いて、部屋もちゃんと片づけて掃除して、日々を大切に生きて、周りの人を大切にして、これからも書いていきたいと思う。20代最後の夏、創作大賞、「なぜ、私は書くのか」という新しい扉を勇気をもって開いて、本当によかった。それまでとは見え方、感じ方も変わったし、書く姿勢を変え始めただけでなく、日々を生きていく1人の人間として、ほんのちょっぴりだけ成長できたとも思うから。
気づいてなかったことに気づいたとき、自分の刺にも気づかされた。自分が人を傷つけたことに向き合うのは苦しいけど、傷つけた相手はもっと苦しんだし今も苦しんでいるかもしれない。代償として戒め、これからを変えていくしかない。今を生きている私を誇れるように、生きていきたい。
サポートしてくださる方、ありがとうございます! いただいたサポートは大切に使わせていただき、私の糧といたします。