【小説】 母はしばらく帰りません 32
しかし同じ気持ちをマティアスに求めるつもりは、
カケラもなかった。随分と年下だし、
幸せな時間を共有しているけれど、
それが長期的なものだとは考えていなかったからだ。
どんな反応をするだろうか? それだけは気が重かった。
まず、間違いなく、困った顔を見せる、
いや、先に驚いた顔か。そしてその後、それらを取り繕うように、
a 結婚を言い出す。
b 今はまだ、子供を持つことは出来ない、
と、もっともらしい理由を延々と語り出す。
その辺りを予想した。ただどっちにしても、
今までのような関係は終わるだろう。
つまらないな、せっかく楽しかったのに。
しかし、いつまでも黙ったままでいる訳にはいかなかった。
「あのさー、子供が出来たみたいなんだよね、私。その、君の子供だけど」
と、敢えて軽く、明るく言ってみた。
それは近所のローストビーフの美味しいパブでのことだった。
何飲む? ギネス?」
と、聞かれて、
「あ、私は水でいいよ。今、酒止めているから」
「どうしたの? 体調悪い?」
と、ひどく心配されて、先ほどのような答えになった訳だ。
マティはしばらく、ぽかんと惚けた顔をした。
多分、言葉の意味が飲み込めていなかったようだ。
そして顔を伏せた。まるで木製のテーブルの表面に、
何かすごく興味深いことが書かれているかのように。
あーあ。やっぱりな。
輝子は正直なところがっかりしていた。
こんな感じになるだろう、とシミレーションしていたが、
心のどこかで少し期待していた。
マティアスという人に、男に、恋人に。
すると彼は大きな音で鼻を啜った。
見るとテーブルの上に、ポタポタと水滴がこぼれていた。
泣いている……!
と気づいてギョッとした。喜ぶとは思わなかったが、
まさか泣くほど嫌がられるとまでは思っていなかった。
「……一緒に暮らそう。明日から、いいや今から!」
「へ?」
マティは蝋のような大粒の涙を次々にこぼして、
輝子の手をがっしりと握った。
「俺、お父さんになるんだね。信じられないよ、こんな日が来るなんて! ありがとう、テル。俺はこんなに幸せだったことはないよ」
と、感極まったらしく、またひとしきり泣いた。
「それは、どうも。喜んでくれて、何よりだよ」
「家を探そう。俺とテルと子供と、三人で暮らせる家を。それで、もし、テルがそうしたかったらだけど、結婚しよう」
「あー、そこまでは、考えていなかった」
実のところ、何も考えていなかったのだが。
「うん。俺はどっちでもいいんだ。テルと子供と一緒に居られるならなんだっていい。テル、ありがとう。愛しているよ。体を大事にしてね」
「うん、そうだね。まだ実感ないんだけどさ、気をつけるよ、て何をすればいいのやら」
「病院には行ってないの?」
「来週、超音波検査とかいうのに呼ばれているよ」
「俺も行く! ああ、楽しみ過ぎて、どうしたらいいのかわからない!」
と、彼は熱に浮かされたように、「三人」の未来を語り出した。
それは、多少気圧されてしまうくらいの熱心さで、
輝子は戸惑いつつも、嬉しかったのだ。
そして、幸せだった。
この時は、確かに。
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