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他力本願な生き方

鳥によって運ばれた樹木の上で生きる、半寄生植物のヤドリギは「他力本願な生き方」なんて先日の記事に書きながら、実はとても後ろめたい気持ちになった。ヤドリギにそんなことが言えるほど、私自身は強固な意志を持って今まで生きて来たのだろうかと。



これまでの人生の中でもっとも意志を貫いたのは、大学卒業後にフランスに留学すると親に宣言をして、卒業後の半年間、バイトに明け暮れた末に、勝手に日本を飛び出した時のこと。とはいえ、フランスに行くことを決めたのも、ある人の助言があったからだ。

当時、私は雑誌や書籍、広告などで料理のスタイリングをする、フードコーディネーターになりたくて、知人から紹介された広告代理店に勤める女性に会いに行った。その時に「料理もできた方がいい」という彼女のアドバイスによってひらめいた、「料理を学ぶならばフランスへ」という超短絡思考のせいなのである。

パリには1度旅行で訪れたことはあったけれど、憧れはもちろん、興味さえもほとんどなかった。まずもって、料理をすること自体がそこまで好きだったわけでもない。だから最初は本格的に料理を学ぶつもりなんてなくて、現地に行って一般人向けの安い料理教室に通えばいいか、くらいの考えだった。とにかく、ビザをもらうために、フランスの語学学校に入学の申し込みをし、いざフランスへと飛び立ったのだ。

最初に立ちはだかった巨大な壁はフランス語だった。出発前はバイト三昧だったから、語学力はゼロ。しかも、フランスに来たのは料理を学ぶためであり、語学を学ぶためではない。何といっても私自身、英語の成績はけっして威張れたものではなく、語学の才能自体にかなり問題がある。だから、フランスに留学をしたものの、フランス語を学ぶことが嫌だった。入学した語学学校を登校拒否さえしていたのだ。

だから、フランス語は上達しないし、フランス語ができなければ料理学校だって行くことができない。しかも半年で貯めたバイト代なんて、渡仏3カ月目には尽きてくる。留学を地方都市から始めたため、12月になって暮らし始めたパリはその年末、何十年ぶりかの大寒波の到来で最低気温は-20℃。携帯電話はもちろんのこと、インターネットもなかった時代。半地下にある安いワンルームには電話もなく、公衆電話から寒さで震えながら日本にいる親に国際電話を掛けた。

「フランスに来て何も成してはいないけれど、お金がなくなったから日本に帰ります」。周りはクリスマスの賑やかな雰囲気である。フランス語もままならず、知り合いもいない私は、公衆電話のボックスの中で完全にひとりぼっちだった。しかも、このまま日本に帰ったところで、これから一体何をすればいいのだろう。孤独で無力な自分が悔しくて、電話越しの父親に向かって思わず号泣してしまった。

それまで親に弱音を吐くことはなく、留学にしても相談なしに、自分で決めたことを事後報告するような娘である。フランスに発ってから初めて寄越した電話で泣き出した私に、父親はさぞかし驚いたに違いない。そこで父親がそんな身勝手な娘に返してくれたのが、「お金は出してあげるから、思う存分フランスでやってきなさい」というやさしい言葉だった。

こうして私は、パリにある外国人向けの料理学校、ル・コルドン・ブルーに通うことができたのである。何といっても外国人向けだから、生徒は日本人、韓国人、アメリカ人ばっかり。フランス語なんてほとんど必要ない。今までの惨めな生活とは一変し、その後の約1年間、美しいパリの街で留学生活をまさにエンジョイした。

ル・コルドン・ブルーの東京校が代官山にあることを知ったのは、日本に帰国してからのこと。それならば、フランスに行く必要もなかったのだけれど、あの時の留学への勢いは若気の至りとしか言えない。そんな人生の一大決心も、結局のところ他力本願によって成し遂げられたわけである。

帰国してから食専門の編集プロダクションに入り、その後、料理雑誌の編集部を経た私は、数年後にフリーのライターになっていた。その頃、付き合っていた日本在住のフランス人に「フランスに一緒に行こう」と誘われ、再度渡仏したのが2003年のこと。彼は母国であるフランスが嫌いで、暮らしても長くて2年。その後は中国に行きたいと話していたため、私自身もフランスに長く住むつもりはなかった。

その頃に住んでいたのが、パリ近郊のヴェルサイユ宮殿のあるヴェルサイユの街。相変わらず、フランス語は頭痛の種だったけれど、フランス人と暮らす2回目のフランス生活は、外国人だらけの留学とは異なり、とても新鮮だった。そんなフランスの暮らしをブログに書き始めて、初めての著書となったのが「フランス バゲットのある風景」(産業編集センター刊)である。



この著書のあとがきに「上海で暮らします」とあるように、フランス人の彼と一緒にその後、上海にも行った。そして、フランスと上海、そして日本を行き来する生活を送ること2年ばかり。最終的に中国で暮らしたい彼と、フランスで暮らしたい私で生きる場所が異なり、彼との関係は終わりになった。

それまで無計画で生きてきた私も、その頃で30代半ばである。さすがにそろそろ今後の事を考えなくてはいけない。日本に帰るのもアリだよねと思っていた矢先、出会ったのが現在のパートナーであるファンファン。あの頃、あのタイミングでファンファンに会わなかったならば、日本に帰っていたかもと考えると、人生とは本当に不思議なものである。

そんなこんなで、今でも暮らし続けているフランスは、今年で18年目となった。あんなに学ぶのが嫌だったフランス語を、なんだかんだと話しながら生きているのだから、自分でもびっくりする。留学した時はまさか再渡仏するなんて想像もせず、再渡仏した時だってこんなに長く住むことになるなんて思いもよらなかった。私にとって住みやすい国だからこそ、今でもフランスにいるのだと思うけれど、決して強い意志があったわけではない。

フランスという、この国にご縁があったのだろう。それはまさに、鳥が種を落としてくれたところが偶然に、フランスだったようなもの。まったくもって、他力本願なのである。

そもそもライターという職業は、他力本願な仕事なのだと思う。専門分野があるのならばその道を究めている人もいるけれど、私なんかはひとつのことに熱を上げることがまずない。だから、著書もジャンルはさまざまで、食関係からインテリア本があったり、語学書があったり、動物写真集なんてものまで出している。好奇心の向くままに企画を出し、取材でその場所を訪れ、人に話を聞いたり、調べ物をするだけで原稿が書けるのだから、場の力や他人の知識にあやかっているようなものである。そんな他力によって出版させてもらった、著書は現在で37冊になる。

写真を撮ること自体も、他力本願なことだと思う。スタジオカメラマンやアーティストの写真家は、自分の意図を反映して作り込んだ写真を撮るのだろうけれど、私は取材カメラマンである。現場に行った時に起こることを撮るだけ。もちろん、こんなシーンが撮りたいといったイメージを持つことはあるけれど、実際には成り行きまかせが多い。特に被写体が動物となった時には、モデルに無理強いすることはできない。こっちは神に祈るような気持ちで、いい写真が撮れることを願うだけである。そして、そんな他力によって撮らせてもらう写真が、私は好きなのである。

実は「他力本願」の本来の意味は、「他人まかせ」や「他人に依存する」ことではないという。


 親鸞聖人しんらんしょうにんは『教行信証きょうぎょうしんしょう』に「他力たりきといふは如来にょらいの本願力ほんがんりきなり」と明示しておられます。
 だから、他力とは、他人の力ではなく、仏の力、阿弥陀仏あみだぶつの慈悲のはたらきをいうのです。
 仏さまの生きとし生けるものを救わずにはおれないという強い願いのはたらき、これが「他力本願」なのです。


凍てつくパリの街で、ひとりぼっちで公衆電話のボックスにいた哀れな私を、仏さまは救わずにはいられなかったのかもしれない。そして無力であることは、今の私も同様、あの時からまったく変わっていない。だからこれからも、他力を願って生きていくしかない。それならば、ヤドリギのように、与えられた場所であるフランスという樹木の上に、根を生やしてみてもいいのではないか。そうすれば、その場で小さな花を咲かせることもできる。大輪じゃなくてもいい。小さな小さな花をできるだけいっぱい咲かせたい。


これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

酒巻洋子

編集ライター/フォトグラファー

著書に関しては、企画、構成、リサーチ、取材、撮影、執筆まで、基本的にすべて行っています。既刊書、仕事内容等は、ブログ「いつものパリ」にて紹介していますので、どうぞご覧ください。


お問い合わせ、お仕事のご依頼は、

smkmky@yahoo.co.jp までどうぞ。


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