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この世界に平等はあるのか

こんにちは。閲覧ありがとうございます。
今回は「平等」について「命」を題材にして考えていきたいと思います。

皆さんはこの世に平等はあると思いますか?
生まれた時からスタートラインが違うからこの世界は不平等?
どんな億万長者も天才も貧しい方も凡人も1日24時間だから唯一時間だけは平等?
色々考え方がありますよね。
僕もずっと時間だけは平等なのかなと思っていたのですが、よくよく考えて見るとその24時間の中で自分のやりたいことが出来る時間は各々違っているので、厳密には時間も平等では無いような気がしています。慶應には僕のような若い人からご年配の方まで幅広く沢山の学生がいます。僕とかだと好きなだけ勉学に時間を当てられますが主婦の方だと一日の大半を子育て家事に費やし勉強出来るのは疲弊しきった夜の数時間という方も多いと思います。しかし成績を付けられる際はそのような事は一切度外視ですから時間も平等では無いのかなと思います。よく時間を作るのも努力とか、効率良くやれば良い。とか言いますがそれは独り身ならそうかもしれませんが子供を育てていたりすると自分の力ではどうにもならない事が沢山あるでしょうから無理ですよね。

ということでつまり僕の結論としましては「平等」は存在しない。です。

こう感じたことの大きなきっかけとなったのが
昨年大学で社会科学特論という授業を履修した時です。
今まで命は平等で命に重いも軽いもないと思っていましたが自分の中で勝手に命を差別化、区別化していたことに気付きました。
この授業ではナチス政治について学んだり、安楽死について考えたりしました。その安楽死について学んでいる過程で生きるに値しない子供"も"T4作戦という名のもと殺害する。ということを学びました。
ここで重要なのは僕がそれを学んだ時に子供"も"と無意識に考えたことです。自分の中で本来平等であるべき命を、子供の命>大人の命  と考えてしまっていたのです。

子供には未来があるから?
では、大人は未来がないの?
未来がなければ生きる価値がないの?
絶対に違いますよね。
でも僕の中で勝手に命を区別化していたのです。
これでは本質的にはT4作戦を実行したナチス政府となんら変わりないのではと。

確かに人間は比較する生き物であるのは間違いありません。
有名人が亡くなったニュースが飛び込むとみんな口を揃えて"お悔やみ申し上げます。安らかに。"と言うけれど今日も世界ではたくさんの人達が様々な理由で亡くなっているのに有名人だけお悔やまれるのかとずっとむず痒くなっていました。
もちろんどこの誰だか知らない人が亡くなっても知らないけれど、何かしら影響を受けたり、存じ上げている人が亡くなるのとでは違いはあるのでしょう。僕自身も誰だか知らない人が亡くなっても無関心でいたので。
仕方がないことなのでしょうね。
だってこの世には平等なんて存在しないのだから。

東京に住んでいると毎日どこかの路線が遅延している事を目にします。遅延の理由は様々ですが朝や夜は人身事故が多いと感じます。
しかし僕自身駅の電光掲示板に"人身事故の影響により遅延"という文字を見ても「あー、遅延かぁ。」としか思っていませんでした。ダメですね。愚かですね。
遅延かぁ。じゃないですよね。人が1人亡くなっている訳ですよね。

線路に飛び込むまでにどのような葛藤があったのか。最後に思い浮かべたのはなんなのか。
この人も誰かに大切に育てられて、僕たちと同じように学校で授業を受け放課後友達と遊び将来に希望を抱き幼少期を過ごしたのかもしれません。こんなnoteの数行では語れないほど人生いろいろなことがあったでしょう。でもその全てを投げ出したいほど辛かった。恐らく1日2日辛かった訳では無いでしょう。数ヶ月、半年、1年、あるいはそれ以上ずっと耐えて耐えて耐えて。
しかしもう我慢の限界が来て死んだ方が楽だと思ったのでしょう。死に方は色々ありますが線路に飛び込むというのは親族に後始末等の迷惑をかけたくなかったからなのか。あるいは社会に対する反抗心か。
分からないですが人が1人亡くなるということは凄まじいことであります。
しかし僕は遅延かぁ。としか思っていませんでした。
なんだか大人になるにつれて自分の中で命が軽くなっているような気がします。
1年間で2万人以上が自殺するこの国。
毎日50人以上が自ら命を絶つ。
でも誰も見向きもしない。無論僕自身も。

命は平等とか言うけれど絶対に平等じゃないなと自分自身を省みても感じますね。
そうなってくるとやはりこの世に平等というものなんて存在しない。そしてそれは仕方がないことのように思えます。

僕が今後戦争や貧困について経済的観点から学びたいと思ったことの一つが今まで述べてきたことでもあります。
少し深掘りすると、やっぱり僕の中でも命を平等には扱えていないし、全人類に同じ質量で命を尊ぶことは出来ません。なぜなら平等なんて存在しないから。
しかしながら今日も飢えて死んでいく方がいるこの世の中でそれを少しでも減らせたり、またその事実と関わることで少なくとも、関わらないよりは飢えて死んでいく方たちの命を尊ぶことが出来るのかなと思ったからです。
様々な事例から人が死を選ぶことはあります。その全てに目を向けることは出来ないけれど何か一つでも目を向けていけたらなと。

平等はないけれど少しでも平等に扱えるように自己満足の領域、あるいは偽善でも構わないから日々生きて行けたらなと思います。

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