言葉の潔癖症
なんともう6月ですよ。今年も折り返し地点にやってまいりました。
年始に載せた記事で今年の目標を書いていますが、その目標を達成するためには、うかうかしていられないなと感じております。改めて気を引き締め直して精進して参りたい所存であります。(2つほど前の記事でも言った気がしますが笑)
是非今年の目標を書いてある、記事(去年の総まとめ)にご興味があれば下記より!
さてさて、今回のテーマは、「言葉」についてです。
自分は潔癖症ということは全くなく、ある程度汚いものでも許容できる人間なのですが、言葉に関してはかなり重度の潔癖症であります。
そもそも「言葉の潔癖症」なんてワードを耳にしたのもここ数ヶ月の話です。
高校卒業した頃から毎週欠かさず聴いているのがオードリーのオールナイトニッポンなのですが、数ヶ月前に若林さんが話の途中にふと、「言葉の潔癖症」というワードを使っていたのを聴いたのが最初です。
今まで、どこか自分は他人の発する言葉、更には自分の発する言葉をすごく注視する節があり、綺麗な言葉なら心地よくなるし、汚かったり、間違っていたりする言葉だとすごく気持ち悪くなることがありました。
これを「言葉の潔癖症」と言い表すのだとしっくり来ました。
これもまた、一つの綺麗な言葉(しっくりくるという意味で)による心地良さでした。
日本語が母国語でありながら、日本語がおかしかったりすると自他共に強い違和感を抱くと共にむず痒さを感じます。
将来自分に子供が出来た際には、言葉遣いだけはしっかりと教育したいなと思っています。
人間が他の動物よりも優れている点はいくつかありますが、そのうちの一つが言葉を通して会話ができることだと思っています。
それに加えて人間は、理性がありますから、しっかり考えた上で言葉を発することが出来る生き物です。
しかしどうにも、後先や、相手の立場になって考えてから言葉を発する人が少ない。
もちろん、少ないからこそ逆に、それができる人に価値があるわけですが。
言葉を紡ぐのではなく、吐露する人が多い。
よく聞く例えですが、言葉は包丁の様なものです。
料理に使えば非常に便利なものですが、人を殺すこともできる非常に危険なものでもある。
言葉は、自分の気持ちを伝えたり、相手を救ったりも出来ますが、逆に言葉一つで相手を殺すことも出来る。
それは、精神的にも人体的にもどちらにでも。
言葉は良くも悪くも相手に届くものなのです。
また、言葉の、要所要所や、細部を見ればその人の
人となりが分かると私は思っています。
助詞の使い方ひとつを取ってみても千差万別ですし、同じ意味を伝えるにしても言葉のチョイスや言い回しの仕方によってその人となりが分かりますよね。
また、前述の通り、人間がほかの動物よりも優れている点の一つに、言葉通して会話ができること、言葉を通して感情を、思っていることを相手に伝えることが出来る。というものがあります。
だからこそ、その言葉というものを正しく扱える人間でいたいし、正しく扱えていなかったり、大切にしていない人と出会うと、どうもむず痒い気持ちになってしまいます。
人間は、言葉で決意表明をして、行動で証明する。
この一連の作業によって信用、信頼を得るものだと思っています。
言葉の弱点として嘘をつける、思ってもいないことも言葉として相手に伝えることが出来る。というものがありますから、そこは行動というもので言葉の信ぴょう性を高めていかなくては行けないと思っています。
また、個人的な好みの問題でもありますが、日常生活でしばし耳にする言葉(単語)の中にもむず痒くなるものがあります。
個人的には、「おんな」という言い方。
もちろんケースによってむず痒く感じない場合もあるのですが、男性が「女なんて結局~」などと発言しているのを耳にすると嫌だなぁと感じます。
他にも人に対して「お前」というのもあまり好きではありません。
別に言われても気にはしませんが。
これは、日本語が間違っていたりする訳では無いですが、人間には理性があり、その理性のおかげで相手の立場になって考えるということができます。
相手の立場になって考えてみた結果上記のような発言をするかな?と考えるとしないように思えます。
となると、相手の立場になって考えることもせず、軽率に発言をしているというわけで、やはりそういった人達は言葉を大切に扱っていなくて、好きにはなれません。
僕の友達は「ブス」とか「デブ」という人が嫌いと言っていました。
まぁ恐らくこれも同じような理由で嫌いなんでしょうね。
人様の見た目に関してなにか言及する人に良い人はいませんからね。
これも相手の立場になって考えて発言をしていないということですよね。
まぁここまで散々偉そうに述べてますが、僕も軽率な発言をしないように心がけてはいても、軽率な発言をしてしまったと後から後悔、反省することはよくあります。
また、まだまだ正しく日本語を扱えいないことも多々あります。
細かい事言えば、この記事だって、ら抜き言葉使っていたりだとか、話し言葉で書いていたりだとか沢山ありますからね。
だからこそ自分を含め、これからもずっと発言には細心の注意をはらっていきたいと思っています。
重ね重ねですが、言葉は相手を助けることも殺すこともできる、良くも悪くも非常に便利なものですからね。
昨今のsns等での誹謗中傷を見てみても、言葉は潔癖症になるくらい、細かく扱う方が良いのではと最近思う次第であります。
〜加筆修正~ 2022/06/10
日銀総裁の「家計が値上げを容認している発言」を撤回というニュースを見て加筆。
確かに人は、何度でもやり直せるとは言うけれども発した言葉は一生消えないのよ。
だから何をどう発するかは、潔癖なまでに注意しないといけない。
撤回したってこの人が発言した事実は消えないし、世間にも知れ渡ってしまった。
以前の森喜朗氏の「女は話が長い」発言も、思うのは勝手だけど、しっかりと言葉に注意をしていれば絶対出ない発言。
また、それを撤回したところで後の祭り。
今回の黒田総裁の発言も、同じニュアンスのことを言うにしても、もっと言い方はあっただろうし、そこを配慮すべきだった。
そこの想像力がない人間が上に立って様々な物事を決めていると思うと恐ろしいものです。
ある意味我々若い世代は良い反面教師としてやっていかなくてはなりません。
あと、別件というか一つ書きたかったのに忘れてしまっていたので、こちらも加筆。
最近世の中が変わっていき、多様性が重んじられ、様々な単語が聞かれなくなったり、他人に対して言わなくなったり、言ってはいけないという空気が出来ました。
そんな中しばし耳にするのが、以前の方がもっと生きやすかった。
今は様々なコンプライアンス等に注意しなくてはいけない。
何も言えない、気にしすぎな世の中だ。
この類の発言はSNS上はもちろん、自分の身近でもきこえてきました。
これに対する意見はたった1つ。
お前らが感じてる生きづらさの何倍もの生きづらさを、ずっとマイノリティの人達は何年も何十年も黙って耐え凌いできたのだぞ。
ずっとお前らのぬるま湯浸かり文化が、社会全体に浸透していて、しょうがないこと、当たり前のこと、として我慢を強いられていたのだぞ。
お前らの生きやすさのために多くの人たちが。
平気で誰かを傷つける言葉を発しても許容される社会なんて、生きやすい社会でもなんでもなくて、何も考えていない思考停止した終わってる社会でしかないのよ。
だから、今世の中が変わって生きにくい社会だと思っているなら、それは元来お前らが社会に適応していなかったというだけの話。
そもそも社会というのは全てを受け入れられるべきものである。
発言に注意しなくてよかった世の中、時代なんてクソ喰らえ。
みんながみんな注意して、言葉を大切に扱えば良いだけの話。
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