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【学習規律】子どものため?大人のため?【校則】

筆箱は机の右側に置きましょう!
先生の話を聞くときは、手を膝の上に!
ノートの書き方は〇〇に揃えましょう!

学校できる服装は華美でないものに!
髪の毛の長さは〇〇まで!

学校現場ではこのような指導が日常的にされています。いわゆる「学習規律」「校則」と呼ばれるものです。

最近では世間でも、
「ブラック校則」
という言葉が話題になりました。
「ブラック校則をなくそう!プロジェクト」というのも立ち上がっているようで、社会問題になってきています。

「ブラック校則をなくそう!」プロジェクト
http://black-kousoku.org

学習規律や校則って…
落ち着いた学校生活を送るために必要?
子どもの行動を制限する不要なもの?

みなさんは、このような学校や学級ごとにある決まり事をどのように考えますか?

現在、小学校に勤めていて、将来「ミライをツクル学校」を立ち上げる身としては、避けて通れないテーマです。
ということで、今日は「ブラック校則」、「学習規律」について、私、かずきちが考えていることを書こうと思います。

それではいってみましょう!


①なぜ「ブラック校則」が存在するのか?

外見等が原因で事件や事故に遭うケースがあるため、生徒を守る趣旨から定めている

これは昨年の夏頃にある自治体の教育長が話した「中高生の髪型をツーブロックにすることを禁止する」理由を求められた際の答弁で、当時話題になりました。

つまり「生徒の安全を守るため」と言ったところでしょうか。しかし、どうしてもこの答弁は表向きな内容に聞こえてしまいます。

その裏には大人たちの、
「ルールで縛らなければ、子どもたちは望ましくない方向へと進んでしまう」、「子どもは大人の言うことを素直に聞くべきだ」
という深層心理が見え隠れしている気がしてなりません。
また、服装や髪型などを統一しておくことで、「指導が楽」という、教師側の都合のような気さえしてきます。

これらはあくまで私の印象ですが、純粋に「生徒の安全を守るため」だけでは、今の子どもたちを納得させることはできないと思います。


②「これが学校のルールだから」は通用しない

受験生の皆さん!質問です!
「シャーペン、蛍光ペン、三色ボールペン」は、学習に必要ないものですか??

答えは聞くまでもありませんが、必要です。というか、多くの受験生にとっては必需品レベルですよね。

しかし、小学校になると世界が変わります。どれも「学習に必要ないもの」として、筆箱に入れるのを禁止されます。わりと多くの小学校が該当すると思いますが、どうでしょうか?
この「学習規律」、学習をし始める1年生ならまだしも、6年生でも上記の3種類の文具は学習に必要ない、というのは正直無理があります。

試しにマインドマップで先生(T)と子ども(C)で役割を分けて、やり取りを想像してみましたw

結局最後は、
「全学年、持ち物を揃えないといけない」という、謎の理論と、
「学校のルールだから」という、最も納得のいかない、特別意味のない説得に終始します。
そこで一番まずいと思うのが、子どもが食い下がらずに「もういいや」と思ってしまうこと。

「私には不合理なことがあっても変える力は無い」
→「私には社会を変える力はない」
→「言われるがままに生きよう(思考停止)」
→「選挙に行く意味ない(社会参画の意識低下)」

ここまで考えてしまいます💦
「持ち物ひとつでそこまでは、考えすぎじゃない?」と思うかもしれませんが、子どもの世界はそこまで広くありません。持ち物ひとつから生じる「諦めの経験」は確かに子どもの心をマイナス成長させると思うんです。
そういう意味でも、必要な学習規律かどうかをよく考える必要があると思います。

③学習規律や校則は、誰のためのもの?

ここが一番重要ではないでしょうか?
一般的な「学習規律」というものは、「みんな同じルールで、同じ行動をしよう」という動きを推し進めてしまうものだと捉えています。

そうであるならば、大事なのは、その学習規律を守ることは誰のためのものなのかを考えることかと思います。

端的に言えば、

子供が将来社会でよりよく生きていくためか
教師が管理しやすくするためか


このどちらかになるかと思います。
例えば私は「筆箱の位置」や「筆箱の中身」などは教師のための学習規律ではないかと考えています。

大人になって、筆箱の位置や中身を上司に指示されたり、社内の規則で決められたりすることなどないはずです。(もし万が一、そういう企業が存在したらすみません💦)
それならば、本来、子どもが教師に筆箱の位置や中身を決められる必要はないですよね。
例えば、左に置いていたら褒められて、右に置いていたら叱られるんですよ?
じゃあ、みんな筆箱が同じ位置にあると、どうなるか。
「子どもを統率できているように見える」んですね!「落ち着いた雰囲気で学習に向かえていますね✨」なんて、担任が先輩教員に褒められることも。

…でもそれって、子どもたちが将来使わないスキルを身につけて、揃っていることで担任が称賛される。
これが教師のための学習規律だと考える理由です。

こうした学習規律には、私はどうしても違和感を感じざるを得ないです。

でももしも、多様な考え方を持つ子どもたちにとって、将来彼らの生きる力の糧になるような学習規律であるのならば…
それは素晴らしいものかもしれません😊

④結論

書いていて考えがまとまってきました。

私は…

「学習規律」や「校則」が嫌なんじゃない。
教師の、教師による、教師のための「学習規律」「校則」が嫌なんだ!

それは、ミライをツクル、子どもの能力や意志を奪いかねない!

学校における主体者は子どもであるべき。
だからこそ…

子どもの、子どもによる、子どものための「学習規律」「校則」であれば、確実にミライをツクル原動力になる!

そう思ってます😄

現に、オルタナティブ 教育の一つである「サドベリー教育」では、たくさんのルールを子どもたちのミーティングを通じて作り上げ、各校分厚いルールブックが存在していました。
そこの学校の子にとって、分厚いルールは「自分たちの生活を守るためのもの」という認識であり、自分たちの行動や発言を著しく制限するものではありません。
じっくり議論を重ねて、成功と失敗を繰り返しながら作っていける学習規律や校則であればいいなと思います!

日本の子どもを世界一幸せに!
自分を知り、自分を生き切ろう!!

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