#4 〜福岡県出身の亡き祖父たちが生きた戦時中から戦後の時代を軍歴を通して辿る旅を経て、本当の絆を取り戻した私の家族の記録〜
matahari@マレーシアこと江頭陽子です。
この記事は、さらに続ききます。
めちゃくちゃ長い(汗)この私たち家族の物語に、ここまでお付き合い頂いたあなた、本当にありがとうございます。
#5で着地させる(しかも今月中・・・今日?!)予定なのですが、次々に想いが溢れ、もう収拾がつかない感じになっております。もしよかったら、いつ終わるかわからないこの物語に、最後までお付き合い頂けますと幸いです。
そして何か感じることがあればご感想なり身近な方にシェアいただくなりしていただけますと筆者は喜びます^^
母方の祖父にはもう一人の兄がいた。25歳の若さでビルマの奥地で名誉の戦死を遂げた大伯父。
#3では、筆者の祖父石松三吾の軍歴をご紹介しましたが、ここではビルマで名誉の戦死を遂げた祖父の長兄石松清輝の辿った数奇な運命について書きたいと思います。
- ビルマで戦死した祖父の長兄、石松清輝の軍歴詳細
- 大伯父の軍歴を通して気付いたこと
まず、軍歴から大伯父は幹部候補生に選ばれ25歳の若さで戦死した時には既に少尉になっていたことからも、とても優秀な人だったことがわかります。
太平洋戦争の前から、日中戦争に関わり、東江作戦など1万5千人という被害者を出した大きな戦闘にも関わっていたようです。
- 大伯父がいた隊とマレー作戦の意外な関係が明らかに!
大伯父の軍歴を読んで最も驚いたことは、wikipediaによると、大伯父が入隊した 歩兵第114連隊(菊8905部隊)は昭和17年1月19日に広東省虎門を出港し、1月22日タイ領シンゴラ(ソンクラー)に上陸後マレー作戦参加しているのです。占領後はジョホール州の警備についています。どの連隊が引き起こしたかの詳細は不明なのでなんとも言い難いのですが、この頃に華僑粛清事件がシンガポールやネグリセンビラン州同様、ジョホール州でも起きたのです。日本軍による抗日分子(多くの民間人も含む)大量虐殺が起きました。
ジョホール州(コタ・ティンギ)に慰霊に行った際の記事はこちらからご覧いただけます。
Wikipediaには、同年3月4日第18師団はビルマ転身のため移動を開始。マンダレーやシャン州の戦いに参加。ミートキナーの警備に就いた、とあります。
その4ヶ月後の7月に大伯父はビルマに於いてこの隊に転属になっていますので、マラヤには来ていないことが分かったのですが、ビルマで合流した多くの同胞たちがマラヤから来ていたことをこの軍歴から読み取ることができました。
私がこの活動を続けて来た背景にあるミエナイ力の存在
祖父たちや大伯父の軍歴を取り寄せることで、わたしが14年のマレーシア生活の中でマレーシア人と非常に親しくなり、彼らの協力を得ながら日本占領期の証言を集めたり慰霊旅を続けて来た理由が分かった気がしました。
大伯父が辿った中国、ベトナム、フィリピン、ミャンマーという国々にも、14年間のマレーシア暮らしの中で深いご縁が出来ました。
敗戦後の11月に、立派だった長兄がビルマで戦死した知らせを聞いた5歳年下の弟は、どんな想いでその訃報を受け止めたのでしょうか。
祖父の想いを想像するしかないのですが、自分も兄さんのようになりたかったのではないか、と思えてならないのです。
満州に長兄同様歩兵の機関銃兵士として出征していた祖父は、「福岡防衛のため」という理由で帰還命令が下り日本に戻された訳ですが、皮肉なことに原爆投下という理由で日本は敗戦してしまったため、戦闘に巻き込まれることなく生き延びました。
生前に一度も会うことのなかった祖父ですが、日々こうして想像を巡らすことで、こうしてこの文章を綴っている間も、まるですぐそばにいるような気がしているんです。
- 長年わたしが抱え続けて来た疑問の点と点が繋がり始める。
軍歴を取得した2023年2月から1年余りが経過していますが、こうして文章にするために資料を整理したり改めて読み返している時に、当時は気付かなかったことに目が止まる瞬間が何度も訪れました。
これまで2018年頃からマレー半島の日本占領時代のリサーチに向き合いながら、何故なのか分からない焦燥感や使命感を感じてきましたが、今になって点と点がつながり始めていることを実感しています。
父方の祖父江頭勤ニが入隊した隊(龍兵団)と、母方の大伯父石松清輝が入隊した隊(菊兵団)の本拠地や、母方の祖父石松三吾が満州から帰還して戦後傭人として過ごした軍の拠点がいずれも久留米だったこと。
大伯父がビルマに呼ばれ転属した菊兵団が、まさにその半年前にマレー作戦に参加し英領マラヤのシンガポール陥落に関わっていたこと。
私たち親子が四半世紀にも及ぶ家族間の不和を少しずつ乗り越え和解しつつあった2016年10月(両親の結婚40周年の節目でした)に初めて三世代で東京観光をした際に、何気なく参加を決めた「はとバスツアー」の目的地の一つが靖国神社だったこと。
その時全く意図せず人生で初めて訪れた靖国神社。
そこには、母が存在すら知らなかった清輝伯父さんがいたのです。きっと私たちをあたたかく迎えてくれたのでしょうね。
- 2016年に三世代でほのぼの東京観光に行った時の記録。(写真あり)
東京タワーの目の前のホテルに二泊して大喜びの両親でした。忘れられない思い出です。
かつては物も言わない時代があった事が嘘のように、親子間のわだかまりも消え去り、帰省の度に孫を可愛がってくれるようになった頃のことです。
- 人生初の「靖国神社参拝後」の私の人生の驚くべき変化
今思うとこの頃から、私のマレーシアでのフリーランス人生が着実に飛躍しはじめました。
翌年2017年にはライフコーチ資格をシンガポールで取得し、コーチングセッションの提供を始めて、日英通訳やマレーシアと日本を繋ぐイベントの司会などの大きな仕事が増え始め、たくさんの出会いを(そしてそれに伴う試練も)経験させて頂く機会に恵まれました。
この経験を活かそうと、マラヤの日本占領期の証言を集める活動にシフトして行った2018年から現在に至るまでの軌跡は、このnoteに綴って来ました。
- 二回目の「靖国神社参拝」。なんと靖国の境内で福岡の山笠に遭遇⁈その後ルーツのある福岡県とのご縁がさらにさらに深くなる。
2019年10月に二度目の靖国神社参拝のチャンスが訪れましたが、その日は偶然、靖国の150周年の例大祭の日で、福岡からはるばるこの日のためにやって来たそれは大勢の山笠の男衆が靖国神社を練り歩いていたのです!!
偶然にしては凄すぎませんか?
(当時は知る由もありませんでしたが、これももしかしたら大伯父さんの計らいだったのかしら?)
この日のことは生涯忘れる事はないと思います。
詳しくはこちらに書きました。
二回目の靖国参拝の理由についても詳しく書いております。靖国を練り歩く山笠の様子も写真でご覧頂けます。
2019年12月には、福岡市とマレーシアのペラ州イポー市の姉妹都市提携30周年記念イベントの通訳として市議会の皆様に同行させて頂くというまたとない機会を頂きました。州知事、両市長も参列された非常に大きなイベントでした。
この時、生前の祖父を知る人に繋いで頂けるご縁を手繰り寄せたのです!!(この件については長くなりそうなのでまたの機会に書きたいと思います)。
この頃からクアラルンプール福岡県人会の皆様ともご縁が繋がり定期的に交流させて頂いております。
このことからも、太平洋戦争から80年の時を経て、戦死した大伯父と、戦後にいずれも60代で亡くなった両家の祖父の魂が、日々わたしを見守り力強く応援してくれていること、困難な時も日々届けてくれるメッセージの存在をひしひしと感じています。
いよいよ最終回。筆者の母と生き別れた祖父。壮絶な幼少期の記憶。祖父他界後も憎しみを手放せないままでいた母の心を癒した「本当の真実」とは。→#5に続きます
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