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#1 〜福岡県出身の亡き祖父たちが生きた戦時中から戦後の時代を、軍歴を通して辿る旅を経て「本当の絆」を取り戻した私の家族の記録〜

[注]最初にお断りしておくと、これめちゃくちゃ長い上にしかも続きます(汗)家族のことを赤裸々に書いていますが、家族の許可取っています。

matahari@マレーシアこと江頭陽子です。
ご無沙汰しております。

しばらくnoteを更新出来ておりませんでしたが、おかげさまで様々な出会いを通して「マラヤの日本占領期の歴史を伝えるストーリーテラー活動」は依然として続いております。目の前にいる人たちに伝えることは出来ても、なかなか腰を据えて「書く」という作業に向き合えない日々を送っていました。

最近ご縁があってマレーシアでご紹介頂いた、私と同じくマラヤの戦時中の歴史に関心を持っておられる原田さん親子(仮)との交流を通して、わたしの福岡県出身の祖父たちの軍歴を調べた経緯や、その過程を経て修復された家族の絆について、きちんと書いて残し伝えたい、という思いがまたふつふつと湧いてきました。

原田さんの息子さんは高校生で17歳。その若さで日本占領期のマラヤの歴史に関心を持たれて、ご自身でも伝える活動を始めたばかりの青年で、私の話にも熱心に耳を傾けてくださり、ストーリーテラー冥利に尽きるというか、、、その出逢いのおかげで、若い世代の皆さんにも伝えて行きたいという思いがまた強くなり励まされました。

原田さん、背中を押していただきありがとうございます。

いざ、書く段階になって、これまでの家族の歩みを振り返りました。

いくつもの、到底偶然とは思えない数々の出逢いやドラマを通して、亡き祖父たちが生きた戦時中と戦後という昭和の時代のことを、軍歴という公的な資料やさまざまな方への取材を通して読み取って来た私の四半世紀にわたる歩みを綴ってみました。

では、早速本題に入ります。かなり長いので、細かく目次で分けてあります。ご興味のあるところだけ、あなたにとって必要だと思うところだけ、という感じで飛ばし読みしていただけましたら幸いです。

[注]特に陸軍の軍歴請求について詳しくお知りになりたい方は、続きの#2からお読みください。

必要な人に届きますように。


そもそも何故亡きお祖父さんたちの軍歴を調べようと思ったのか(家族背景なども含めているので、かなり長いですので適当に飛ばし読みしてください)

 - ざっと、我が家の家族構成について

筆者は昭和52年生まれ。福岡県三潴郡(現久留米市)と鞍手郡(現直方市)出身の両親の元、横浜で生まれました。今年47歳。3歳年下の弟がいます。

私の父は昭和24年生まれ。中学校を卒業後、若干15歳で福岡の田舎から集団列車で横浜へ。某企業の製造作業員として働いていた父と同郷で同い年の母が出会い結婚。母は専業主婦になり、一家は横浜で慎ましくも幸せに暮らしていました。父の転勤で一家が山口県防府市へ引っ越したのは私が中学校一年生の時でした。

 - 母娘の長きにわたる不和のきっかけとなった衝撃的な出来事について

当時まだ小学生の高学年だったわたしの身に突然降りかかった衝撃的な出来事についてお話ししましょう。

私が生まれる前に亡くなったと聞いていた母方の祖父が実は生きていたことを、たまたま親族からの電話に出た私が聞いてしまったのです。

小学生のわたしが偶然取った電話。それは祖父の訃報の連絡だったのでした。
(当時はスマホはなく、各家庭の電話が連絡手段でした)

その日から、「なぜ母は私たちに嘘をついていたのか」「おじいちゃんは生きていたのに何故私は一度も会えなかったのか」という疑問が解決できぬまま、子供心に不信感を抱き、幼心に大きなしこりを残す結果となりました。

何故母が孫である私たちに祖父の存在を隠したのかを、後に理解できるまで、長い長い年月がかかりました。

遠くに住んでいた母方の祖母は、横浜に足繁く通ってくれ、私たち姉弟を可愛がってくれていましたが、子供心に母と祖母の折り合いが悪いことはなんとなく気付いていました。母と祖母の不仲、祖父との断絶の理由を知ったのは、ずっとずっと後になってからです。(この件については最終回に書きます)。

高校生の頃から、私と母との関係は悪化の一途を辿り、物も言わない年月が流れました。父も長く単身赴任をしていたせいで、母娘の冷戦状態に気付いていたのかいなかったのかよく分かりません。そのせいか、若い頃から自立心が旺盛で(やんちゃともいう)高校を卒業した頃から、私は実家に寄り付かなくなりました。

そんな私たち親子が、本当の意味で和解に至ったのは、私が結婚をして海外に渡り、何年も経った後でした。長年に及ぶ親子間の不和に、きちんと向き合う心境になったのは、2011年にマレーシアで私が長男を出産した頃でした。わたしは30代半ばになっていました。

「綿々と続く家族間の負の連鎖を断ち切りたい。息子には受け継ぎたくない。」

そういう思いで、タブーだった祖父母との関係性や私たち家族の話を少しずつするようになりました。最初から上手くいった訳ではなく、母からは「お祖父さんの話は二度としないで欲しい。」と拒絶されたのも一度や二度ではありませんでした。

この頃から長い歳月が過ぎました。さまざまな対話や努力を重ねてきた私たち親子の間のわだかまりは、今ではすっかり消え去り、現在70代の両親と40代になった私はようやく本当の意味で家族らしい心の通った交流が出来るようになっています。

私なりに家族と共に一進一退しながら進んできた四半世紀の歩みをお伝えすることで、今親子間の問題で悩む方に少しでもお役に立てればという思いで、乱筆乱文ではありますが、ここに書き残して行こうと思います。

 - 2010年にマレーシアに移住

結婚後3年間をアメリカで過ごした後、私たちは夫婦はマレーシアのクアラルンプールに移住することに。大学院を卒業した夫の勤務先でした。引越しの準備期間はたったの約1ヶ月。マレーシアという国についてリサーチする間もなく、ほぼ全く何も分からない状態で引っ越して来ました。33歳の時でした。

私は駐在妻のような立場でしたが、専業主婦が全く向いておらず、移住後まもなく就職活動を開始し、クアラルンプールに支店を置く日系の広告代理店に入社しました。マネジメントの秘書や日系ブランドを扱う企画営業などの仕事を3年8ヶ月させていただきました。中途入社まもなく妊娠が発覚、出産、産後たった2ヶ月で職場復帰、海外での初めての育児、という怒涛の日々を過ごすことになりました。その間、私を支えてくれたのは、マレーシアで仲良くなったマレーシア人や外国人の仲間たちでした。

息子が3歳になる前に、フルタイムの仕事と育児の限界がやって来て、退職を決意。紆余曲折を経て、ビザを取得しフリーランスの通訳として活動を始めました。ちょうど今から10年前の2014年、37歳の時でした。

通訳としてクアラルンプールで各方面の方とご一緒させていただく機会に恵まれて数年が過ぎた頃、私に転機が訪れます。

 - 移住から8年後(2018年)日本占領期のマラヤの歴史のリサーチを開始する

ある日、戦前と日本占領期のマラヤを舞台にしたマレーシア映画を撮影しているロケ地に通訳として派遣されたのです。

台湾人の映画監督と、日本人の映画ジャーナリストさんの対談の通訳でした。
その映画のタイトルは「The Garden of Evening Mists」(邦題:夕霧花園)
この映画については過去記事に散々書いて来ましたので、ここでは割愛します。

トム・リン監督と、主演の阿部寛さんの事務所からマレーシアへ派遣されたというジャーナリストさんと同席させて頂きました。この出逢いをきっかけに、旧マラヤの日本占領期の歴史に興味を持ちました。

こちらの記事から当時通訳に伺った日のことをお読みいただけます。

その頃まで、マラヤの日本占領期の歴史については詳しく調べたことがなく、学ぶ機会も訪れませんでしたが、ようやく移住から8年経って、同年代のトム・リン監督のお話を通じて知ることになった衝撃の事実の数々に圧倒されました。

その日から、それこそ寝る間も惜しんでリサーチに没頭しました。このnoteの執筆を始めるきっかけになった出来事でした。

- 「もしかしてお祖父ちゃんは兵士としてマラヤに来ていたの?」その疑問に答えてくれた久留米在住の伯父のはなし

リサーチを続ける中で、心底驚いたのは、マレー作戦に参加した第18師団(菊兵団)が、父の故郷である福岡県久留米市だったこと、を知った時でした。
(参考:旅行ガイドにないアジアを歩くマレーシア 高嶋伸欣著)

両親とも福岡県出身なので、祖父たちが戦時中に辿った道程を知りたい、という想いが募りはじめました。

幼い息子の手を引いて頻繁に帰国しては、父の6つ年上の兄である伯父に自らハンドルを握って久留米まで会いに行き、今は亡き祖父母の思い出話を聞くようになりました。伯父は戦争映画にも詳しく、私が知らないアジアを舞台にした古い映画を教えてくれたり、長い間の海外生活のせいで全く疎遠だった姪にそれはそれは親切に接してくれました。伯父によると、祖父は陸軍に徴兵されたけれど、体調が悪く出征はせずに終戦を迎えた、ということでした。

また2019年頃には、母方の祖父の生前のことを知る人と運良く繋がることが出来ました(このストーリーについては改めて書きたいと思います)。

祖父たちについてもっと詳しく知りたいという想いが膨らんで行った時期でした。一時帰国の度に、息子を連れて戦争関連の遺跡や資料館を訪れるようになったのもこの頃でした。初めて三世代で東京観光に行き、はとバスに乗って靖国神社を訪れたのもいい思い出です。

 - コロナで日本への一時帰国が延期に(2020年)

ついに、私はこの数年間のリサーチを通して繋がった方々への取材旅行を決行することに。まだ息子は小学生で、家において日本に一人で帰国するのは躊躇しましたが、それでもやり遂げたい思いが募りました。西日本新聞の記者さん、旧陸軍駐屯地の自衛隊の資料館、久留米市役所にアポを取り、帰国の準備を着々と整えていきました。

そんな時に、想定外のことが起きました。世界中に新型コロナウィルスが蔓延したのです。

それにより、ずっと計画してきた渡航の延期を余儀なくされてしまいました。ちょうど同じ頃、陸軍の軍歴を調べることが出来るということも分かりましたが、今更日本に行くことも叶わず渡航を泣く泣く断念。

このような訳のわからない状況で強制的に計画を中止させられてしまった私は途方に暮れ、マレーシアの非常に厳しいロックダウンの中、必死にその環境に順応しようともがいていました。しばらく執筆をお休みすることにしました。

次第にロックダウンが緩和され始めた頃、同じコンドに住む住民たちと交流する機会が自然と増えて行き、次第に深いお付き合いに発展して行きました。この古いコンドに住む高齢のローカルの住民たちにお話を聞いてみてはどうだろう。日本に行けないのならば、マレーシアで出来ることをまずやろう

それから現地の方達から証言を集める活動にシフトして行きました。

 - ついに3年6ヶ月ぶりに帰国(2023年2月)

月日は流れ、次第に海外旅行に出る人が増え始めた2022年頃も、私はさまざまな理由でマレーシアを動けずにいました。その間も、現地の人たちから日本占領期の証言を集めたり、オンラインでのおはなし会を開催する活動は継続しました。日本旅行さん主催の「日本占領期のアジア」をテーマにしたオンラインガイドツアーは2022年だけで7回も開催させていただきました。行動制限の緩和と共に、マレーシア国内に慰霊の旅に出かけたり、おはなし会を現地開催したりして、活動範囲を徐々に広げて行きました。

この当時、私の話を聞いてくださった方々から最も多かったご感想は、「今まで全く知らなかった。学校でも学ばなかったし祖父母も両親も誰もこの話をしてくれたことはなかった。知っていたら現地の人への接し方がもっと違ったものになっていたと思う。知れてよかったです。これから自分でも調べてみます。」というものでした。

日本人の方から謙虚に尋ねなければ、現地の人から話してくれることはまずない母国日本の負の歴史。「自ら知ろう」という人が一人でも増えたら、そのきっかけ作りが出来たら、そういう想いで活動を続けていました。

ようやく2023年の2月にある事情で帰国する必要が出来たので、たった5日間だけでしたが日本に一時帰国することになりました。

このたった5日間の日本一時帰国は、この時には、全く予想もしない展開になりました。(ようやくここから軍歴の話になります。長々とお付き合いくださったあなた、ありがとうございます!)

2023年2月、ついに軍歴(陸軍)を保管している福岡県庁福祉労働部保護援護課を訪れる→#2に続く



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