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#3 〜福岡県出身の亡き祖父たちが生きた戦時中から戦後の時代を軍歴を通して辿る旅を経て、本当の絆を取り戻した私の家族の記録〜

さらに、ストーリーは続きます。

#2には、母が若い頃に生き別れた祖父の軍歴を取り寄せるため、本籍地を調べに祖父が暮らした街、福岡県直方市(のうがた)を訪れ、そこで出会った見ず知らずの親切な方々のおかげで祖父の本籍地が判明した、というなんとも導かれたとしか思えないエピソードについて書きましたが、#3はその続きです。



奇跡の連続で祖父の本籍地が判明。戸籍謄本取得のため訪れた直方市役所で起きたもう一つの奇跡。

#2に書いた通り奇跡的な出会いを経て 、わたしたちは祖父が暮らしていた家を見つけ出し、急いで軍歴照会に必要な戸籍謄本の原本取得のため直方市役所へと向かいました。営業時間終了が迫っていました。

到着すると市役所内は人でごった返していていました。母と私はさっき教えていただいた住所を元に戸籍謄本取得のための書類を記入し、しばらく待っていると番号を呼ばれたのでカウンターへ。まだ20代だと思われる若い女性職員さんが対応くださいました。

「残念ながら、この住所では該当がございません。」

そう告げられたわたしは呆然。

そんなバカな・・・。
喜んだのも束の間、また振り出しに戻ってしまったような気がしました。

今日はもう無理だと思い、隣にいる母に目くばせをして、帰ろうと促しました。

でも、母は諦めませんでした。
先ほど商店街の呉服屋さんの直美さんから見せてもらった「ゼンリンの地図」のスマホ画像を見せて

「昔、この辺りは区画整理があったようなのです。これが参考になりませんか?」

振り向くと大勢の人が待っていました。わたしはなかなか引き下がらない母を諭して今日は帰ろう、と言いました。これから車で3時間以上かかる山口県の実家まで両親を送り届けないといけなかったからです。そろそろ日が暮れようとしていて営業時間の終了が迫っていました。

それでも、その職員さんは嫌な顔ひとつせず、もう一度調べに行ってくれました。

しばらく待っていると、いそいそと戻って来られ
「ありましたよ!」
と明るい声をかけてくださいました。

なんと!!一度は諦めかけたけど、母の粘りで実の父親の戸籍を手繰り寄せたのです。思わず涙が溢れそうでした。

手渡された戸籍謄本は二部ありました。

曽祖父が筆頭者の祖父を含む兄弟姉妹が含まれた戸籍と、祖父が結婚し世帯主となった長女であるわたしの母と二人の妹が載った戸籍でした。

- 曽祖父が筆頭者の戸籍謄本から衝撃の事実が判明。祖父にはもう一人の兄と年の離れた妹がいた。

その場で目を通しながら、わたしは衝撃の事実に気付きました。

母からは、祖父には兄が一人と妹が一人という家族構成だと聞いていたので、子が祖父を含め3人のはずなのですが、なんと戸籍には5人の子の名前が書かれていたのです。

祖父の名前は「石松三吾」

兄が一人しかいないはずなのに、名前に三という数字があることを、母は不思議に思っていたそうです。

やはり祖父は三男でした。
そう、祖父にはもう一人の兄がいたのです。

その長兄の名前は「石松清輝」と書かれていました。


そうなんです。#2に詳しく書きましたが、呉服屋さんのご主人が見せてくださった「福岡県戦没者名簿」に掲載されていた名前

石松清輝 ビルマで戦死

まさに、それはわたしの祖父の長兄のことだったのです。

分厚い名簿にも関わらず、迷わずそのページを開いて見せてくださったことを思い出しました。

戸籍謄本にはこう書かれていました。

石松清輝
出生  大正7年2月19日
昭和18年10月15日時刻不明
ビルマ方面に於て死亡(当時25歳)

石松タツヨ
出生 昭和8年3月24日
昭和17年4月4日死亡届受付(当時9歳)

祖父の一家の戸籍謄本より

大伯父が25歳の若さでビルマで戦死していたこと、大叔母が9歳の若さで太平洋戦争が始まったすぐ後に亡くなっていること(死因は不明)、その事実を姪である母が親から全く聞かされてなかったこと。

祖父がなぜその話を家族にしたがらなかったのかは想像するしかありませんが・・・。

そして、なにより、この日、母と私が協力することでしかこの事実を知ることは永遠になかったわけなのです。

二人で祖父が暮らした街を歩き、そこでご縁があって出会った見ず知らずの人々のご協力を得て、わたしたち家族が知るべき非常に大切な事実に遭遇することになったことは、全て奇跡のように思えました。

まるで、あらかじめ用意された脚本が存在したかのように… まさに、導かれたと思わされた出来事だったのでした。

#1にでも紹介しましたが、旧ビルマ(現ミャンマー)で亡くなって、今もジャングル奥地に置き去りにされたままの旧日本軍の兵士たちのご遺骨を収集する活動を、現地の人々の協力を得ながら私財と寄付を募って長年続けられいてる、福岡県太宰府出身の井本勝幸さんにインタビューをした経験がありました。

英領の拠点インドのインパールを目指したインパール作戦の失敗で数万と言われる兵士たちがビルマのジャングルで餓死や疾病のため亡くなった事実については、これまでも記事に書いてきましたが、まさか自分の身内もビルマで亡くなっていたなんて、その時は知る由もなく

この件で、さらに祖父と戦死した大伯父の辿った出征時の足取りを知りたい気持ちが募りました。

早速、福岡県庁の福祉労働部保護援護課のご担当者に戸籍謄本が取得できたことと、わたしがクアラルンプールに戻る前日に資料請求のため再訪したい旨をメールしました。すぐにお返事があり快諾いただきました。母が請求者となり、委任状を持参してくださいとのことでした。

通常3営業日かかるところ、たった1日にでご準備いただくことに。おそらく海外在住という特殊な理由だったせいもあり、限られた時間という事をご理解いくださり、非常に柔軟にご対応頂いたのでしょう。感謝してもしきれません。

- コロナパンデミック後、3年6ヶ月ぶりに山口県の実家へ。

両親を実家のある山口県に送り届け一泊した後、わたしはまた翌朝福岡に戻ることに。

なんと慌ただしい3年6ヶ月ぶりの帰省でした。

夜遅く実家に到着後、疲れた父は早々に寝床へ・・・母とは、寝る前にビールで乾杯しながら、この旅で起きたことを時間を惜しんで語り合いました。

わたしが中学生の時に横浜から山口県に引っ越したわたしたち一家は、翌年に父が念願のマイホームを手に入れて以来ずっとそこで暮らしました。わたしは進学などで県外に出ることなく地元で就職したので、結婚するまで実家で暮らしました。思い出がたくさん詰まった実家。

押し入れから古いアルバムをたくさん引っ張り出して、母と昔話に花を咲かせました。私が見た事の無かった両親の結婚式や新婚旅行の写真なども見せてくれました。

また明日には海外に戻って行ってしまう娘にどんな思いを抱いたのか、わたしは想像するしかないですが、この久しぶりの再会で生涯忘れることは無いだろう経験を共有できたわたしたち母娘は、その晩とても幸福でした。

束の間の再会だけれど、家族の絆を再確認できた貴重な時間となったのでした。

- 翌朝再び福岡へ。ついに母方の祖父と大伯父の軍歴が明らかに。

両親と束の間の時間を実家で過ごした後、また福岡へ。翌日の朝には福岡空港からマレーシアに戻るので、福岡県庁に行くにはお昼前には出発しないと営業時間終了に間に合わないということで、母が心づくしの朝ごはんを用意してくれ、食べ終わったらすぐ出発することに。

このご時世、またいつ両親に会えるかわからない。後ろ髪引かれる思いでしたが、私には迷いはありませんでした。どうしても長年知りたかった母方の祖父が辿った戦争時代の足取りが今日いよいよ分かるのです。

車を走らせ福岡県庁に到着したのは午後4時を少し過ぎた頃でした。県庁の営業時間終了は5時45分。あまり時間はありません。

数日前にお会いしたご担当者さんがあたたかく迎えてくださいました。

机の上には祖父と大伯父の軍歴が二部用意されていました。

心臓の鼓動が速くなって来ました。

母方の祖父が戦時中に出征したのは満州(ソ連国境)と判明。無事帰還できた皮肉な理由とは。

二人の軍歴には、びっしりとその当時の足取りが綴られていました。

まず、祖父石松三吾の軍歴から。

保護援護課の職員さんには、数日前に父方の祖父の軍歴でもお世話になりましたが、事前に詳しく読み込んで頂いていたようで、手書きでびっしりと書き込まれた軍歴簿の読めない箇所を読むのを、営業時間終了間際にも関わらず懇切丁寧に手伝って頂きました。

- 祖父の軍歴の詳細(抜粋)

昭和15年3月7日(17歳)
   福岡県直方商業学校卒業
 将校ノ行教練ノ検定ニ合格

昭和19年5月20日(21歳)
 臨時召集ニヨリ歩兵第132連隊ニ召集
 満州奥第7232部隊ニ入隊
 第一機関銃中隊ニ編入 
 同日ヨリ国境警備
(筆者追記:ソ連と満州の国境)

昭和19年11月20日(22歳)
   一等兵ニ昇格

昭和20年4月1日(23歳)
 轉用(転用)ノタメ黒河省出発
 同月2日鮮満国境ヲ通過、同月9日羅津港出帆、同月13日博多港帰着


昭和20年4月14日(23歳)
   第16方面軍ノ指揮下ニ入リ福岡市周辺作戦準備

***昭和20年8月15日 日本無条件降伏***

昭和20年9月19日(23歳)   
 上等兵ニ昇格

昭和20年9月19日(23歳) 
  久留米師管区司令部ニ転属
  善行証書授与

昭和20年9月27日(23歳)
  久留米師管区歩兵第二補充隊第二中隊転属
  
昭和*(不明)年9月1日
  陸軍*傭人ニ採用
 (筆者追記: *傭人(ようにん)とは軍属の一種で、本人の意思で軍に所属し勤務する者)
 

筆者の母方の祖父石松三吾の軍歴から抜粋

書ききれないので、重要と思われる部分だけ抜粋しましたが、この軍歴から読み取れることで、祖父の運命が大きく動く瞬間が読み取れました。

- 転属を命ぜられれ満州から朝鮮半島を経て博多港へ。終戦間際の4月に祖父は九州に帰還命令を受ける。

当時まだ23歳の若い兵士だった祖父は、ソ連と満州の国境警備に配属されました(零下40度にもなる極寒の土地だそうです)。

連合軍による沖縄上陸作戦が開始された1945年3月26日を境に、祖父は福岡の防衛のため日本へと戻されることになりました。

沖縄戦勃発から一週間も経たないうちに帰還命令が下り、ソ連との国境にある満州北部の黒河省を出発し、約2週間をかけ北朝鮮の港を経由し博多港に上陸していることが軍歴から明らかになりました。

- もし、この時祖父がそのまま満州に残っていたら。

ソ連が不可侵条約を破って満州に迫った時、祖父は戦闘の前線で命を落とすか捕虜として捕えられシベリアへ送られていたかもしれません。

祖父が生き延びた理由。

それは、その年の8月に広島と長崎に原爆が投下され、日本が敗戦したからでした。

ある説によれば、連合軍の当初の原爆投下の目的地は九州福岡の小倉だったと言われています。数奇な運命を経て、祖父は生き延び、戦後生まれの私の母へと命を繋いでくれたことが、軍歴を調べることでこうして判明したのです。

母方の祖父にはもう一人の兄がいた。25歳の若さでビルマで戦闘の末に名誉の戦死を遂げた大伯父。入隊した隊の戦時中の足取りも判明。長年わたしが抱え続けて来た疑問の点と点が繋がり始める。→#4に続く


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