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12. 《interview》 ヨナタン・ヴォルチョク 後編

ーーどんな家庭で育った?

両親ともイスラエル生まれ。母は先生、父は高校でボランティアを長年やっているけど、90年代後半にはアフリカ(ガーナとナイジェリア)で仕事をしたこともあった。僕には兄と弟がいて、兄は理学療法士、弟は高校の先生。

両親とも音楽好きで、高校時代に母はアコーディオン、父はギターを弾いていたらしい。だから家ではいつも音楽が流れていて、イスラエルの歌、ポルトガルやブラジルの音楽、ジャズ、またスティービー・ワンダーとさまざまな音楽に囲まれながら育った。

ーー両親はイスラエル生まれだけど、祖父母は?

母方の祖父母はポーランド、父の父は旧ソ連のどこかで、父の母はおそらくウクライナ。父方のルーツはあまり詳しく知らなくて、家族の中でもミステリーな部分と言える(笑)。
母方の祖母家族の大半は、ホロコーストで亡くなっていて、母方の祖父の家族にもホロコーストの犠牲者がいる。

ーー音楽は何から始めたの?

6、7歳で最初に始めたのはキーボード。それからトランペットやフレンチホーンも習って、その後トロンボーンに移った。僕が生まれ育ったのはキブツ(集団生活の価値観を共有する住民で構成される集落のことで、イスラエル国内に約270点在。)なんだけど、キブツ内に音楽の先生がいたし、伝説的ともいわれるピアノの先生が時々来ていたから、音楽は身近で、楽器を手にするのは自然な環境だった。

8歳でユース・オーケストラに入った。9歳の時に、同じキブツに住んでいたYossi Regev(多くのイスラエル人ジャズアーティストを輩出しているテルマ・ヤリン高校ジャズ科の科長。自身もバークリー音楽大学で留学するなど音楽家として活躍)から、Clifford Brownを勧められて、意識して音楽を聴くようになった。自分が最初に買ったCDはコルトレーンの『Blue Train』だということをよく覚えている。

10歳の時なんだけど、高学年や中学生に混じって音楽キャンプに参加した。部屋に友達がみんないる中、ひとりでベッドに座って、ウォークマンでClifford Brownを聴いていた時「僕がやりたいことはこれだ!」とピンと来た。その瞬間を今でもよく覚えている。そして、その通りの道をこれまで歩んできている。

高校に入る前、アヴィシャイ・コーエン(トランペット)とエリ・ディジブリ(サックス)をよく見に行った。彼らは僕の5歳くらい年上で、いい見本だった。彼らの演奏を聞くたびに圧倒された。それから、同じキブツに当時テルマ・ヤリン高校に通っていたギル・スウィンがいたのも幸運だった。ギルはイタイ・クリスやジャック・クロッドマンと友達で、彼らが演奏しに来る時は、自分も混ぜてもらっていた。(キブツという)田舎育ちだけど、幼い時から恵まれた環境の中にいた。

ーー NYに行く前は?

高校卒業後は3年間兵役に就いた。(イスラエルでは男女とも18歳で兵役の義務がある) 同じ学年で仲の良いヘクセルマン(ギターリストのギラッド・へクセルマン)は軍にいかなかったけど、自分が兵役中も二人でよく演奏をした。それから一緒にNYのNew Schoolへ進学し、NYでは一緒に住んでいた。

ーーNYで得たものは?

15歳のとき、マスタークラスのためにトロンボーン奏者Slide Hampton がイスラエルに来た。彼と少し話をする時間があって、その時に「NYに来ることがあったら連絡しなさい」と電話番号を教えてくれた。それから何年も経って、兵役が終わってNYに行った時にその番号に電話した。ペンステーション(ペンシルバニア駅)で待ち合わせしたけど、想像より駅が大きすぎて待ち合わせ場所が見つからず、結局その日は会えなかった。でも、彼はとても親切で翌日僕が住んでいたニュージャージーまでわざわざ迎えに来てくれた。大物アーティストを目の前にして最初は緊張したけど、話してみるとすぐに打ち解けて、彼の家での演奏も噛み合ってうまくいった。やがて彼のギグに呼んでくれたり、ついにはディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)のビッグバンドに紹介されたことで自分の道がひらけた。

ーー NYには何年いた?

6年間。2009年にNew Schoolとの合同プログラムで若者にジャズを教えるThe Center for Jazz Studiesがテルアビブ の音楽学校内にオープンするというので戻ってきた。

ーー 多くのアーティストが帰ってきて、イスラエルの若者アーティストに影響を与えている。

ちょうど自分が高校生の頃にアミット・ゴラン(上記The Center for Jazz Studies設立を実現させるなど、イスラエルのジャズ教育に多大な影響を与えた伝説的人物。2010年、教鞭を取っていたテルマ・ヤリン高校で休み時間中に生徒とバスケットをしている最中に心臓発作で急逝。)、エレズ・バルノイ(アミット・ゴランの没後2011年から19年まで同センター長を務めるなど献身的に教育に携わったサックス奏者、2021年夏急逝)、ユバル・コーエンアモス・ホフマンがNYから帰ってきた。彼らがNYで得た技術やジャズに対する考え方などを惜しみなく授けてくれたおかげで、僕らは本当に恩恵を受けた。自分もイスラエルにいるミュージシャンたちの力になれるように、それを継承していきたいと思っている。

ーー 高校の時にすでに有名だったイスラエル人アーティストは?

アヴィシャイ(ベースのアヴィシャイ・コーエン)がちょうどNYでも注目され始めた頃だった。また、アヴィシャイと同じ頃にNYに渡ったオメール・アヴィタル(ベーシスト)、スライド・ハンプトンとも一緒に演奏していたアヴィ・レボヴィッチの名前も聞かれるようになった。

高校生の時、オメール・アヴィタルがテルマ・ヤリン高校にマスタークラスに来てくれたことがあった。当時はそれほど有名ではなかったんだけど、演奏から伝わる質の違いに驚いた。ちょうど僕たちの先生になったアミット・ゴランから、NYにいた時は大物たちと一緒に演奏したと聞いた頃だったので、NYで真剣にがんばれば、大物と演奏できるんだと大いに刺激された。

      最近はトロンボーンだけでなく、時々トランペットでもステージに立つ

ーー NY時代の日本のアーティストで覚えているのは?

今も演奏しているか分からないけど、すごくうまかったサックス奏者はNew School (NS) で一緒だったMasahiro Yamamoto(山本昌広)。Takuya(黒田卓也)もNSの同期。この前彼のバンドがテルアビブ に来た時は、自分が海外にいて残念ながら会えなかった。他にはKato Martha(加藤真亜沙)Miki Yamanaka(山中みき)Tadataka Unno(海野雅威)、ベースのNoriko(植田典子)Yasushi(中村恭士)もすごく活躍している。

あと、ポップミュージックをやめて、ジャズを学びにNSに来てた50歳くらいの人がいた。いつも授業中は音楽の中にグッと入っていて、存在感があって、やりたいことをやっている姿にすごく影響受けた。
(その時期や経歴から、おそらく大江千里さんのことだと思う)

ーーこれから演奏家としてやっていきたいことは?

自分のいいカルテットがあったんだけど、メンバーの一人がNYに移ってできなくなってしまった。一緒にやるのはそんなに簡単なことではないし、忙しいと難しい。今までは「ビックバンド」に多くの時間を費やしたから、これからは自分の「小さなバンド」にもっと時間とエネルギーを注ぎたい。

ーーところで、 イスラエルジャズというのはあると思う?

ここには確かにNYとは違う何か特別なものはある。だけど、イスラエル・ジャズというと何か型にはめてしまう気がする。いろいろなアーティストがいて、あちこちに演奏する場所があって、それを取り巻くオーディエンスで成り立つ「シーン(scene)」という言葉が合っていると思う。

2023年4月30日(Mimi/Nono, Tel Avivにて)


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