9. 《interview》 ナオール&オーリィ・ネヘミヤ 後編
軍では兵隊のためにパフォーマンス
ーーオーリィ、軍役中のことを教えて。
オーリィ:18歳で軍に入ると、軍のバンドに配属された。兵隊のいる場所を全国渡り歩いて、彼らのためにパフォーマンスをする。軍隊のためのバンドなんだけど、評判が良くて歌がラジオで流れたりし始めて、ときどき頼まれて軍以外でも歌った。
ーー 兵士を励ましたりとか、そういうこと?
オーリィ:そうそう、例えば、パラシュート部隊が降下訓練を終えたあとに基地の中でのお祝いのイベントに出るとか。
ナオール: 自分が入隊した時はバンドの大々的な変更があった。兵士を激励することが目的のラカハーから、スターが生まれたり、そこにお金が投じられたりして、、、。すでにポップソングになって、軍ともイスラエルとも関係ない歌になっていた。そこで参謀総長が、兵士にはイスラエルの文化、伝統に触れてほしい、そのことが重要ということで。
オーリィ:プロのプロデューサーが加わって、ミュージカルのようなものもやった。建国前にイスラエルにやってきた開拓の物語を、歌と演劇のショーに仕立てて、全国の基地を回ってパフォーマンスをした。
ーー 何年?
オーリィ:1978年から1980年。軍役は男性は3年、女性は2年。
義務の2年を終えた後も、仕事として9ヶ月残ったから、私はほぼ3年軍にいた。3年目は給料をもらえたし、その期間は素晴らしい時間だった。
ーー 軍のバンドの人たちはその後も業界で活躍した?
オーリィ: みんな活動を続けて、中には有名になった人もいる。自分も、大勢の人たちに知られるくらいには活躍できた。結婚後はナオールも一緒に演奏していた。
ーー転機はあった?
ナオール: 結婚して子どもが生まれる前、オーリィがイスラエル版の「レ・ミゼラブル」のステージに立っていた。毎回ショーの終わりに迎えにいくと、舞台裏の控室でオーリィがみんなの前に立って喋って、みんなが大笑いしていた。その姿を見て、彼女はすごいなと感激した。
オーリィ:100回公演の後、ホテルで大規模なイベントがあった。そしてプロデュースにも関わっていたある有名な女性が出てきたの。
ナオール:その彼女が、その場の流れで「今から、本当に面白い人がステージに上がります」と言ってオーリィが紹介された。
オーリィ:自分の名前が呼ばれたのは衝撃だった。ナオールがステージに上がれ上がれと言って、周りが「オーリィ、オーリィ」コールをはじめて、Go Goと押されてステージに上がった。
ーーそれで、どうだった?
オーリィ: イスラエルの有名歌手のものまねで2、3曲歌った。それがすごくうまくいって、新聞記事にもなった。
ナオール:「ひとりの無名の女性がステージを持っていった」と書かれた。 それから少しずつ仕事が入るようになった。
オフリー:(親指と人差し指をこすりながら)チャンスが見えたんだな。
オーリィ:そう、お金が見えた(大笑い)。
ナオールがジョークを書いて、自分は替え歌を作って、ものまねをやった。最初はとても大変だったけど、目の前に観客がいて、期待されていて、やりがいがあった。
ーー ソロ?
オーリィ: そう。ミュージカルのスタンドアップみたいなもの。歌を歌ったり、ものまねをしたり、トークをしたり。
ナオール:何回かTVにも出た。自分がマネージャーをして、プロデューサーして、ドライバー、ドラマー。チャレンジングな時期だった。
オーリィ:ナオールは私のセラピストでもあった。それで20年間イスラエル中を回った。
ーー 人を笑わせるというのは一番難しいことだよね?
オーリィ: うん、とても大変。歌は、たとえ観客が気に入らなくても、最後は拍手してくれる。でもジョークは難しい。
オフリー:音楽はいろいろな楽しみ方があるけど、スタンドアップは笑えるか、笑えないか。音楽はもっと抽象的な部分が多くて、気に入って耳を傾けるとか、また自分なりに解釈することもできるし、解釈の方法も多い、でもスタンドアップはゴールが一つだけ。
オーリィ:まさに。最初のジョークが受けないとショックを受ける。それでもそのままどんどん続けなければいけない。やりながら、なんでうけないのかと考えてしまう、だからいつも緊張している。自分にとって一番良かったのは、ものまねの歌のパートがあったこと。素晴らしい演奏つきで。だからジョークがうけないときは、あと2分すれば歌がある、歌は大丈夫と思っていた。
ーー ステージ、恋しくはない?
オーリィ:そうね、物足りない気もする。 今は20年近くボイストレーニングで教えているから音楽が身近にあって、それは楽しい。でも、歌うこととパフォーマンスすることは恋しい。
ーー (オーリィの)両親はいつイスラエルに?
オーリィ:両親はイスラエル建国前の1942年、別々にイエメンから移住してきた。彼らはまだ10歳くらいで知り合いではなかった。母は末っ子で、兄弟姉妹はもう全員結婚していた。両親は亡くなっていて、母は孤児だったんだけど、当時、統治していた英国はイスラエルへの孤児の入国を認めていなかった。そのため、一番上の姉と「母娘」であるかのような書類を偽造して、一緒に渡ってきた。母はその後、19歳の時に結婚した。イエメンで女性の結婚年齢はものすごく低くて、12、13歳だったから、19歳だともう「高齢」だった。
ーー オフリー :お父さん(オフリーの祖父)も孤児だったんでしょ?
オーリィ:そう、父も孤児だった。母は6歳の時に、父は8歳の時に孤児になった。父の母は出産中に亡くなった。父はその父とよく行商でスパイスを売っていた。行商の旅では、彼らはいつも一つの寝袋で一緒に寝ていた。ある朝、私の父が目を覚ますと一緒に寝ていた父の父(オーリィの祖父)が亡くなっていた。イスラム教のイエメンでは、孤児は連れて行かれてイスラム教に改宗されていた。それで、叔父が事実を隠して何年か面倒をみてくれた。数年後に、イエメンのユダヤ人の若者をイスラエルに移住させるということを耳にして、どういう経緯だったのかはわからないけど、彼は他の若者と一緒にイスラエルに移住できた。
ーーイスラエルに来た後は?
オーリィ:母はテルアビブ・ヤッフォに、父はパルデスハナに住んでいた。父がテルアビブにきた時、母の友達が彼らを引き合わせ、数ヶ月後に結婚した。どちらも19歳の「晩婚」だった。孤児だった母は14歳から一人で住んでいて、掃除人として働いていた。16歳からは午前中は掃除の仕事、午後は青年団で歌手をしていた。一方、父は当時英国軍に入っていた。英国はイスラエル人の入隊希望者を募集していて、父はボランティアで入隊し、そこに2、3年いた。
ーーお母さんはイスラエルに来る前、イエメンでも歌っていたの?
オーリィ: ダルブーカ(打楽器。ダラブッカ)を叩いて歌っていた。イエメンのユダヤ人は婚姻前に「ヒナ(ヘナ)」という花嫁のためのセレモニーがあった。女性だけが集まって、イエメンの歌を歌ったりお祝いを言ったりする。母はそこでよくダルブーカを演奏していた。
ナオール: ドラムは自分からだと思っていたけど、おばあちゃんからだったとは。
オフリー:いやー面白い。小さいことだけど、毎回新たなことを知れる。
ーーイエメン音楽について
ナオール:イエメン音楽とかのミズラヒー音楽は、当時ラジオには流れていなかった。ラジオで流れているはポップとか、ロシア系音楽とか軍のバンドなど、アシュケナジーの音楽だった。ミズラヒー音楽のカセットが、昔のバスセンター近くで売られていて、人々がカセットを車で聴くようになってミズラヒー音楽が人気になった。
ーーユダヤ教の他の行事( スコットとかペサハとか)はインドでもイエメンでもあった?
オーリィ、ナオール:あったあった。
オーリィ:小さな違いはあったと思うけど、だけど基本は同じだった。
ナオール: インドのコチンのコミュニティはとても小さかったけど、ラビが来たことがあったから、きっとお祈りの本を持ってきたんじゃないかと思う。お祈りの言葉はヘブライ語だった。
ーー ナオールは(その歌を)残そうと思ったんだよね?
ナオール:イスラエルに来てから、そう思い始めた。コチン以外の人と結婚したりして、コチンの歌がどんどん無くなっていくことを実感したから。
守ることがとても大事だった。ANU美術館(テルアビブ大学内にある)に行くと、母が歌ったディスクが流れている。最近は他でも同じような動きがある。
ハダール:コチンの歌を教えているトバ・カスティエル(Toba kastiel, טובה קסטיאל) とか。他のユダヤ人コミュニティの歌を教えているケイロット・シャロット(Kehirot Sharot)というプロジェクトもある。いろいろなユダヤ人コミュニティに対して、残っているものを紹介している。
ーートバ・カスティエル ( טובה קסטיאל) ってどんな人?
ハダール:75歳くらいの女性。歌をよく知っていて、歌の録音もしていて、それを保存しようとする運動を続けている。コチンの歌を歌うイベントで会ったことがある。彼女自身がコチンで、インドで生まれてイスラエルに移住したはず。
2010年に路上で見かけた少年ドラマーから、インドのコチン、イエメンまで広がるとは。彼らのファミリーヒストリーを聞けたことは感激だ。インタビュー当日は、インドとイエメンの美味しい料理までご馳走になった。あらためてナオール、オーリィ、ハダール、オフリーのネヘミヤ家族に感謝したい。
(2023年1月20日 イスラエル、ギバタイム市 ネヘミヤ家にて)
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