お願いだから貸してくれ 1話
[あらすじ]
山根栞菜は不動産屋に勤める33歳
夫であり、幼馴染の涼介とは結婚して3年になる。
子供はいない。
栞菜は、不動産業に就くことに、抵抗を感じていた。
それは亡くなった父と同じ業種だったからだ。
生前の父は、ギャンブルにはまり、
その度に借金を作った。
家族がどれほど苦しんだことか。
父が逝った後でも、栞菜の中には、複雑な思いが残っている。
しかし今は仕事を選べる身分ではない。勤めていた会社が倒産。
そこへ知人からの不動産屋の紹介。
住まいからも近いこともあり、栞菜は社員になった。
働き始めると、予想もしなかった事態に、栞菜は次々と遭遇することになる。
そして幼い頃から感じていた、夫の持つ能力とは。
お願いだから貸してくれ 1話
栞菜はソファーで、うたた寝をしていた。
「ただいま〜」
午後9時過ぎ。夫の涼介が帰宅したようだ。
栞菜は、寝ぼけ眼でソファーから起き上がった。
「いいよ。いいよ。無理して起きなくても。疲れているんだから」
リビングに入って来た涼介は、そう云ってくれた。
「お帰り涼介。何だか酷く体が重くて。ごめんね」
涼介は、少しの間、黙って私を見ていた。
「謝らなくてもいいよ。栞菜が疲れて当然だ」
そう云うと、キッチンへ行った。
私は軽い頭痛がしていた。
梅雨時だから、仕方がないけど、低気圧の影響を受けやすい体質なので、最近では頭痛がしない日の方が、少ないくらいだ。
「紅茶を淹れたよ。飲めそう?」
「うん。いま行く」
私はソファーから立ち上がり、キッチンに行くと、テーブルの椅子に座った。
「はいどうぞ。栞菜の好きな、アールグレイだよ」
「あ〜いい香り」
ホッとすると、体の力も抜けていく気がした。
「いただきます」
私はティーカップを持つと、もう一度、匂いを堪能してから、カップに口をつけた。
「どう。味のほうは」
「美味しいよ〜。ありがとね」
涼介は満足そうな笑みを浮かべて、自分もテーブルについた。
「今日は大変だったみたいだね。栞菜に話す気があるのなら、僕は訊くよ」
私はティーカップを、ソーサーに置くと、どうしようか迷ったが、話すことにした。
「昨日は水曜日だったから、店は定休日で、私も家にいたでしょう?今朝、出勤したら、古田社長の顔が曇ってたのよ。いつも穏やかで、笑顔を心がけている人なのに」
涼介は、紅茶を飲みながら、頷いた。
だから私、「何かあったんですか?」
そう訊いてみたの。
社長の話しを訊いて、質問するんじゃなかったと、後悔した。
私はため息をつくと、アールグレイを飲み、自分を落ち着かせた。
「一階が雑貨屋のビルがあるんだけど、上は賃貸マンションになってるのね。
そこで……一昨日の火曜の深夜に、7階に住む住人が自殺したそうなの」
「自殺か」
哀しそうに、涼介は呟いた。
社長は教えてくれた。
あのビルは、雑貨屋の自社ビルでね。実は売ろうと思ってたそうなんだ。
そして店を畳んで田舎で、のんびり暮らすことに決めていた。
その矢先のことで、雑貨屋のオヤジさんも、肩を落としていたよ、と。
「それじゃあ、昨日は大変だったろうな」
涼介の云う通りだった。
警察は勿論、保証人である、ご両親も駆け付けて、損害賠償のことや、特集清掃への依頼。
何より今後、あのビルをどうするか。
そういったことの話し合いをしたそうだ。だがたった1日では結論が出せるわけは無い。
雑貨屋のオヤジさんは、頭を抱えるばかりだ。
「自殺した人は、何歳だったの?男?」
「男性。24歳のサラリーマン」
「24歳か。若いなぁ。確かに死にたい気持ちに、年齢は関係ないとはいえ」
私も涼介と同じだった。
やりきれない思いが、胸の辺りに渦を巻いている。
「余程のことがあったんだろう。でなきゃ自分の首をナイフで切るなんて、そうは出来ることじゃない」
(涼介、私はどんなふうに自殺したかなんて、まだ話してないよ)
心の中で私はそう呟く。
「さて、今夜も栞菜に、お土産があるよ」
涼介は、紙袋を私に差し出した。
涼介は、週に3回、仕事の後にパン作りを習いに行っている。
「パンが大好きだから、自分でも作れるようになりたい」
理由は、簡単明瞭だ。
私と涼介は、幼馴染である。
家が隣同士で、お互い行ったり来たりして、たくさん遊んだ。
それはとても楽しい時間だった。
まだ幼い私だったが、時折り涼介には不思議な感じを抱いていた。
私には無い[何か]を涼介は持っている気がしたのだ。
「もう直ぐ、郵便屋さんが来るよ」
オヤツをたべながら、涼介が云う。
すると「書き留めでーす」
と玄関から声がしたり。
「あっ、電話だよ」
と、彼が云えば、
ルルル ルルル
固定電話が鳴る。
そんなことが、何回もあった。
怖いとかは、思わなかったが、羨ましくは感じた。
その内、父親の転勤で、涼介は引っ越して行った。
あれから20年近く経ったある日。
私は銀座のパン屋さんに居た。
全部買いたいほど、美味しそうなパンが並び、選べずに悩んでいたのだ。
すると一人の男性が近づいて来た。
トレーに乗せたパンを、私に見せると、
「このパンと、こっちのパンは、買わないと損ですよ。
絶品です。僕が保証します」
随分と推しが強い人だなぁ。
そう思い、男性の顔を見た。
「あれ?」
男性も私を見て、「あれ?」
これが涼介との、再会だった。
久しぶりということで、私達は、何か飲みながら話そうかということになった。
そして近くにあった珈琲専門店に入ることにした。
涼介は、大学院を出て、大手メーカーの工場で働いていた。
「そういえば、その服って」
上下、青色の服を、彼は着ていた。
左胸元には、有名企業のロゴがあった。
涼介は、にっこりしながら、
「そう。作業着だよ。僕は研究職だけど、ラインでの仕事をする人以外でも、全員が作業着なんだ。上司も役職も関係なくね」
その時、近くのテーブルにいた50過ぎの、女性たちの会話が訊こえた。
「自分の息子には、あんな服は着て欲しくないわよね」
「当然よ。やっぱりホワイトカラーの仕事に就いてもらいたいわ」
それを訊いた私は、彼女たちに一言云いたくなった。
作業着を着て仕事をしている人間を、底辺だと決めつける。その考えが大嫌いだからだ。
涼介の会社は、誰もが知ってる、かなりの大手だ。
そこでの研究職ともなれば、年収も、相当な額のはずである。
だいたい、ブルーカラーだの
ホワイトカラーだの。
そんなことで平気で人を差別するなんて、許せない。
「まぁまぁ。僕なら平気だよ。結構云われるから、慣れた」
涼介は笑顔だ。
「僕が今の会社を選んだのは、残業がないからなんだ。
これは僕にとって、大事なことでね。パン作りを習っているんだよ。週3回だけど」
「パン作りを。涼介はパン職人を、目指してるとか、って無いか」
「違うよ。僕がパンが大好きだから、自分でも作れるようになる為だよ」
「そういえば、さっきのパン屋さんでも、熱かったものね」
「ついね。栞菜もパンが好きみたいだね」
「そうなの。かなり好きなんだ」
この後も、涼介と私は会話が弾んだ。
そして、1年が経ち、私達は結婚した。
涼介の収入なら、私が働かなくても豊かな生活が送れることは、分かっていたが、私の性分では、専業主婦は無理である。
涼介も、その点を理解しており、私が仕事を続けることについて、何も云わなかった。
「ほら、ぼ〜としてないで。
今日も大成功な出来だと思うよ。そして栞菜が大好きなパン」
「なんだろう。好きなパンは、いっぱいあるからなぁ。
塩バターロール?」
涼介は首を振る。
「え〜と。それじゃあ。アッ
もしかして。クロワッサン」
「正解!」
私は袋から、クロワッサンを
取り出した。
「美味しそう。食べていい?」
「いいのですか?栞菜さま。
もうすぐ11時になりますが」
「うっ」
そうなのだ。涼介の作ったパンを食べすぎて、私は太った。
気に入ってる服も、ウエストがキツくなってきている。
でも、食べたい。だってクロワッサンだし。
「僕は、どちらでも構わないのです。ただ栞菜さまの体重……」
「それ以上、云ったら許さないから」
「怖いなぁ。僕は風呂に入って、もう寝ることにする。
作り立てのパンを、その場で食べたから、腹一杯だしね」
私は手に持ってるクロワッサンを、眺めている。
「栞菜の好きにして、いいんだからね。じゃあね〜」
「あの言い方。ムカつく。それでは好きにさせて頂きますわ」
私はクロワッサンを、サクッと食べた。
「おいし〜」
顔が、ニンマリしてしまう。
「けど、1つで我慢しよう」
後ろ髪を引かれる思いで、私は寝室に行った。
今夜は蒸し暑い。
もうすぐ、夏が来るんだ。
暑い夏が、今年もやって来る……。
翌日、出社すると、古田社長と、雑貨屋の店主が話しをしていた。
「この度は、大変でしたね」
そう云って私はお辞儀をした。
「ありがとうございます。正直、参りました」
私は頷き、狭いキッチンへ行き、お茶を淹れて来た。
雑貨屋の店主は、頭を下げて
「すみませんね」
と、そう云うと、湯呑みを手にした。
「社長、まだ決めたわけじゃないですが、ビルを売却するのは、もう少し後にしようかと、思いましてね」
「また、どうしてですか」
店主は、お茶を啜ると、こう話した。
「甥っ子がね、今は事故物件に住みたい人も、割といるんだよと」
「ああ、確かに訊いたことがありますね。家賃は安くなりますが」
「もちろん覚悟の上の話しです。自殺したサラリーマンの男性は、社内虐めにあっていたようです」
「社内虐め」
「ええ、それも学歴のことが原因の1つらしくて。彼は勉強の出来る生徒だったんですが、高校を中退してるんです」
私は、食い入るように聞き入った。
「成績も良いのに中退を」
社長もお茶を口にする。
「気の毒な話しでね。彼の父親が事業に失敗してしまって、多額の負債を抱えてしまったんですよ。それで彼も高校を辞めて、働くことになったんです。真面目な彼は、社長や上司には、可愛がられていたようです。
ただ、社員たちからは……」
社長は、湯呑みをテーブルに置くと、何とも言えない表情になった。
「中卒だから、ですね」
雑貨屋の店主も、沈痛な面持ちで、頷く。
「けれど……彼を追い詰めた、一番の原因は父親を馬鹿にされたことのようです」
「やり切れんなぁ。山根さん?どうかしましたか」
私は涙が止まらなかった。
通いたかった高校を辞め、家の為に真面目に仕事して、それなのに廻りからは、親を馬鹿にされた上に、自分の学歴のことまで。
「泣いてすみません。悔しくて……」
店主も目を潤ませていた。
「山根さんと、仰いましたか。泣いてくれて、悔しいと云ってくれた。亡くなった彼の、いい供養になると思いますよ。ありがとうございます」
「ただいま〜」
私は玄関で、涼介を出迎えた。
「お帰りなさい。涼介」
「どうしたんだ、その目は。
すごく腫れてるぞ」
「たくさん泣いたから」
「たくさん泣いたって」
「話したら、また泣きそうになる」
「分かった。何も云わなくていい。とにかく落ち着こう。
クロワッサンは、まだあるの?」
「あるよ。昨日は1つで我慢したから」
「偉かった。偉かったな栞菜」
「誉められると、また泣きそう」
「なに?どうしたらいいんだ」
駄目みたい。
涙が出てしまった。
えーと。そうだ、栞菜の気の済むまで泣こう。
どんどん泣いていいぞ。
涼介がそんなこと云うから、涙が止まっちゃった。
どうすればいいんだー!
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