お願いだから貸してくれ 3話
「山根さん、私が留守した間、本当にありがとう」
「いえ、たいしたことは、してないですから」
田舎に戻っていた、先輩社員の、川谷さんが今日から出社したのだ。
私は川谷さんから頂いた、栗饅頭を食べていた。
「美味しいですね。このお饅頭。栗餡に本物の栗も入ってて」
「山根さんが、そう云ってくれて、良かったわ。なにせかなりの田舎だから、銘菓が無いのよ」
訊いていいものなのか、私は迷っていた。
「母なんだけど、妹が云ってた通り、ボケ始めてた」
迷っていたことを、川谷さんの方から、話してくれた。
「そうですか……」
「でもね、予想していたよりは、会話が成り立ったので、
少し安心したわ」
川谷さんは微笑んで、そう話した。
「良かったです」
「ええ。けれどこれからは、もっと会いに行く機会を増やそうと思うの。妹ばかりに任せていては、彼女も疲れてしまうでしょうし。実際、かなり疲労してたし」
私は頷いた。
「それはいいですね。妹さんにも、お母様の為にも」
「山根さん、かなり個性的な、お客様のようよ」
え?
自動ドアが開いて、入って来たお客様は、若いカップルだった。
「あの〜部屋を探しています」
そう話すのは、髪が緑の青年。
一緒にいる女の子は、髪がピンク色だ。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
川谷さんが和かに、彼等に声をかけた。
私は相変わらず、狭いキッチンに行くと、ガラスのコップに麦茶を注ぎ、お客様へ、お出しした。
ピンクの女の子は、あっという間に飲み干して、
「冷えた麦茶が美味しい。今日はムシムシしてるから」
「良かった」
私の言葉に、ピンクの子は、
ニッコリと、可愛い笑顔を見せた。
二人とも、20歳にはなってるけど、せいぜい22、3歳かな。
「どのような、お部屋をご希望でしょう」
川谷さんが訊ねると、緑の青年は、
「部屋は2つで、陽当たりが良くて、お風呂があること」
「その他には」
「ガスは都市ガスがいいです」
ピンクの子が、付け足した。
よく調べてある。
LPガスは高くなるものね。
「わかりました。後はご希望の、お家賃をお聞かせください」
「3万」
「3万ですか」
2間で、お風呂付きで3万。
今はお風呂は、ほとんどの物件にある。
銭湯が無くなったからだ。
だが、いくら都下とはいえ、3万では、1kでも難しい。
川谷さんは、ゆっくりと優しく青年に、話した。
「お客様のご要望に、お応えする為には、その金額では、正直なところ、無理なのです」
「あの、幾らならありますか」
恐る恐る彼は質問した。
「7万円でも、難しいかと」
カップルは、顔を見合わせた。
暫く2人は黙っていた。
「出直して来ます。すいませんでした」
立ち上がると、緑の青年は、そう云って頭を下げた。
「こちらこそ、ご要望に添えず、申し訳ありません」
川谷さんの声を背に、2人は店から出て行った。
ガラスの向こうを歩いて行くカップルの足取りは、重かった。
「何か訳ありな感じがする」
川谷さんが、ポツリと云った。
「ただいま〜」
涼介だ。
「お帰りなさい」
「玄関までの、お出迎え。
ありがとうございます栞菜さん」
「いえいえ。お疲れ様でした」
「違う。栞菜は僕のことなんて、見ていない」
「なんでそんなこと云うの。
ちゃんと涼介のこと見てるよ」
「嘘だね」
「どうしたのよ。いったい」
「栞菜が出迎えたのも、栞菜が見てるのも僕じゃなくて」
「これだろう」
涼介は紙袋を掲げた。
そう、今日は涼介のパン教室の日。
「涼介のことも、ちゃんと見てるよ。怒ってるの?」
ニヤッ涼介は笑った。
「こんなことぐらいで、怒るわけ無いでしょ」
と、私の頭を撫でた。
「良かった」
この後の涼介の言葉に私はショックを受けた。
「たいしたことは無いけど、栞菜の髪、少し白髪があるね」
「やだなぁ。まだ33なのに」
「ヘアカラーするといい。
落ち着いたブラウンとかどう?きっと似合うよ」
「そうね〜」
その時、前を歩く涼介が、こう云った。
「ピンクとかは、止めて欲しいけど」
振り向いた涼介は、真顔だった。
私は、涼介の目を見つめた。
「小さい頃から不思議に思ってた。涼介のこと」
「どうして、何も訊かなかったの?」
それは……。
「いつか、涼介の方から話すだろうと思ってたから。それと、訊いてもいいのかが、分からなかった」
涼介は、テーブルの上に、カバンと紙袋を置いた。
そして椅子に腰を下ろした。
「僕が何も云わなかったのは、怖かったからだよ」
私も向かいの椅子に座った。
「私が涼介のことを、嫌いになると思ったの?」
涼介は頷いた。
「だって、気味が悪いでしょう?僕みたいなのって」
「羨ましいと思ってた」
「羨ましい?」
「小さい頃から、涼介の持ってる不思議な“何か”が、私は羨ましかったよ」
涼介は、何とも表現しがたい表情を見せていた。
意外に思ったのかもしれないし、驚いたのかもしれなかった。
「母方の祖父が、そうだったんだ。それを受け継いだのが、僕だったみたいだ」
「でも、祖父ほどの力は僕には無いよ。感じたり見えたりしても、全部じゃない。
中途半端な能力なんだ僕の場合は」
「それでもいいじゃない」
「本当に、栞菜は気持ち悪くないの?」
「もちろん。涼介には本当の気持ちしか私は云わない」
良かった……。
「ところで、今夜のお土産は?」
「おっと。そうでした」
「またクロワッサン級のカロリーのパン?」
涼介は、笑いながら私の前に、お土産の入った袋を置いた。
「今日のは安心して食べられる系だよ。たくさん食べたら、ダメだけどね」
なんだろう。
ワクワクしながら、袋から取り出したのは。
「マフィンね!」
「そう。イングリッシュマフィン」
「最初に食べた時、甘くもないし、粉っぽい感じで、あんまり好きではなかったの。
今は好きだよ」
「メープルシロップを、たくさんつける人っているよな」
「いるね。食べていい?」
「もちろん、どうぞ」
涼介の作ったマフィンは、サクッとしたマフィンで、私は美味しく食べることが出来て、嬉しかった。
「あの若いカップルだけと」
「視えてるんだね」
「うん。ぼんやりだけど」
「どうなるんだろう。住むところは見つかるのかなぁ」
「……複雑な何かを、抱えてる気がする」
「うん。そんな感じだね」
「これが祖父なら、もっとハッキリと分かるんだろうけど。ここが僕の中途半端なところなんだ」
「今夜は、このくらいにしておいた方がいいよ、涼介。
結構疲れるってテレビで、観たことがあるから」
「確かにね。僕もマフィンを食べようっと」
「水分が欲しいな。涼介の分も持ってくるね」
「サンキュ」
何のことか、分からないけど、あの2人は“勝つ”みたいだよ。
“勝つ”って云って来てる……。
翌日、川谷さんと私は、昨日のカップルのことを、古田社長に、話してみた。
「川谷さんの云う通りで、事情があるみたいだな。連絡先は、訊いてあるの?」
「はい。彼の携帯の番号を」
「そうか。紹介出来る部屋が出て来るといいがな」
川谷さんも私も、頷いていた。
「おはようございます」
林さんだ。
「おはようございま〜す」
私は彼女にも、このカップルの話をした。
林さんは珍しそうに訊いていた。
「3万ねぇ。ちょっと難し!
あそこはどうかな。え〜と、
[カワセミ庵]。ここはかなり安かったと思うけど」
「確かにあそこは安かったわ。空いてるか調べてみる」
川谷さんが、パソコンに見入った。
「空いてる。家賃はと。わ、
安い」
「山根くん。彼に電話してあげて」
古田社長に云われ、私は直ぐに緑の青年に電話した。
「もしもし。わたくしは昨日の不動産屋の山根と申します。お客様にご紹介できる物件があるかもしれません。お越しになれますか?」
「直ぐに来るそうです!」
ただ、彼には訊かなければならないことがある。
それは彼も分かっているだろう。
20分後、勢いよく彼が入って来た。
「ありそうなんですか」
汗も拭かずに彼は云った。
「先ずは座って落ち着きましょう。飲み物を持って来ますね」
「ありがとうございます」
「随分、早く来れたのね。近くに居たの?」
「電車から降りたところでした。二駅前の[藤野台駅]です。電話をもらって、慌てて飛び乗ったんです」
青年は、買って来たミネラルウオーターのボトル握ると、一気に飲み干した。
「西野さんとは、お話しすることが、いくつかあるけど、
観たいでしょう?物件」
川谷さんに訊かれ、
「観たい。観たいです。その前に、妹を呼んでもいいですか」
「妹さんだったの。もちろんいいわよ。お名前は何て云うの?貴方も妹さんも」
「オレは西野流風。
妹は、西野桃香です」
流風さんは、妹の桃香さんに電話をした。
「急いで来るそうです。30分もかからないはずです」
兄の勘はすごい。
30分経たずに、桃香さんは、やって来た。
「行く前に、少し説明しますね。ご紹介する物件は、平屋になります」
「すげえ」
「ただし、建物はかなり古く、築40年近くになります。
それを頭に入れておいてください」
「はい」
「じゃあ車を回して来ます」
林さんが駐車場に向かった。
西野さんは、不安気に私に訊いて来た。
「すごいボロ屋とかですか?」
「ボロ屋って。築年数が経ってますからね。あちこち痛んでるとは思います。けれど、
同じ平屋が、近くに3軒ありますが、皆さんの評判は良いですよ。住み心地がいいって」
「お兄ちゃん」
外には林さんが車を停めて、待っている。
「行って来ます」
「行ってらっしゃい。納得がいくまで、よく観て来なさいね」
川谷さんの言葉に、流風さんと桃香さんは、
「はい」と返事をすると、表に飛び出し、車に乗った。
1時間後。
「ただいま戻りました」
林さんの後ろから、兄と妹が入って来た。
2人とも、興奮状態だ。
「すっごく良かったです!
絶対に住みたい」
「本当に気に入りました。見かけは古いけど、家の中は、想像してたのと違って、きれいなので、びっくりしちゃいました」
「大家さんが、しっかりした人なの。住む人が、少しでも快適に暮らせるように、気配りが出来る人」
「でも……」
「家賃のことね」
「はい。だって3万ですよ。
払える額」
川谷さんは、笑顔で答えた。
「カワセミ庵の、お家賃は、
28500円に管理費が500円。合計29000円です」
「う、そ」
「本当です」
「借ります!借りたいです」
流風さんが身を乗り出す。
「お気持ちは分かりました。
その前に、西野さんには、いくつか、お聞きしなければなりませんが」
流風さんは、神妙な面持ちになっていた。
「分かってます」
川谷さんは、一つずつ西野さんに質問した。
先ずは、流風さんの仕事はバーテンダーで、月給は手取りで20万。
妹さんは、保育士の専門学校に通っている。
コンビニでアルバイトをして、学費に当てているそうだ。
本当なら、もう少し家賃を出すことも出来る。
けれど先々のことを考えて、
3万にしたそうだ。
中々、堅実な考えの持ち主だと、私は感心して訊いていた。
2人は、1年前に両親から離れる為に、家を出ていた。
流風さんが、先に一人暮らしを始めた。
それから妹の桃香さんを、呼び寄せたそうだ。
ただ、桃香さんも同居をしていることは、大家さんにも不動産屋にも、黙っていた。
「それはまずいでしょう」
林さんの意見に、流風さんは
「はい。よくないことを、してしまいました。だから」
このことを知った、大家さんは、激怒してしまい、出ていけと云われてしまったそうだ。
流風さんは、次の住まいが見つかるまで、居させて欲しいと、泣きながら懇願し、大家さんは、仕方なく流風さんの
頼みを訊いてくれた形になっている。
「その為には、一日も早く引っ越し先を、見つけないといけないんです」
店内は、静まり返っている。
口を開いたのは、川谷さんだった。
「そこまで、ご両親との家には、戻りたくない理由があるんですね」
流風さんが、話すまでに、少しの時間が必要だった。
「オレたちの母親は、4回も離婚してるんです。いま母と暮らす男も僕らには、赤の他人なんです。少なくとも父親なんかじゃない」
彼はギュッと、握り拳に力を入れた。
【大嫌い】と聴こえて来そうに。
桃香さんは、終始下を向いている。
全身が小刻みに震えていた。
彼女もその男が、大嫌いなのだろう。
ひょっとしたら兄以上に……。
そんな妹の様子を、兄の流風さんは心配そうに見ている。
桃香さんのことを、兄が守っているように見えた。
あの男の全部が嫌い。
特に私を見る、その目が嫌。
そういうことなのね……。
それじゃ一緒になんて、住めるわけがない。
可哀想に。
「あとは、保証人のことですが。なってくれそうな人は、いますか」
川谷さんも、訊くのが辛そうに見えた。
「……いません」
「ご親戚も、無理ですか?」
「はい」
店内に、重たい空気が充満している。
それを払拭したのは、社長だった。
「僕が、大家さんに直接会って、話してみよう。2日待ってくれるかね」
西野くんは、「はい。待ちます。宜しくお願いします」
そう云って社長に頭を下げた。
大家の徳田さんは、合気道の道場を構えて、子供たちに教えている。
男気のある、熱い男性である。
古田社長から、話しを訊くと、今回だけ、特別に保証人無しでも構わないということだった。ただし。
期限は3ヶ月。
その間に、出来ることは、何でもやってみること。
それが徳田さんから流風さんへの課題であった。
そのことを伝えると、西野さんは、電話の向こうで泣いた。
そして、「必ず、この3ヶ月の間に何とかしてみせます」
キッパリと、彼は云った。
「血の繋がりが、あってもなくても、自分の親を好きになれないのは、辛いですね。
私も父のことを、尊敬したかった」
社長も、川谷さんも、黙って訊いていた。
そして流風さんは、顔も見たくないほどの嫌悪感を抱いている男性と、面と向かって話しをした。
アンタがオレらを、子供だなんて思っていないのと同じで、
オレと桃香も、アンタを親だなんて、死んでも思わないだろう。
それから、桃香の心に深い傷を残したことを、オレは決して許さない。
このことを、アンタは一生、覚えておけ。
流風さんは、男にそう言い放ったのだ。
睨むように男は、流風さんを見ていたそうだ。
そして遂に、流風さんが働くBARのマスターが、保証人を引き受けてくれることになったそうだ。
3ヶ月になる、ギリギリに、徳田さんとの約束を、見事に守る結果となった。
「お見事。青年、頑張ったな」
「顔も見たくない男に、よく自分の想いを、伝えられたよね」
「何事も逃げてちゃ、一生そのままだもんな。勝てたのは、自分にってことか」
「うん、そうだね」
「しかし、栞菜のとこの社長さんは、凄い人だよね。たまに栞菜から話しを訊いてたけど、本当にすごいわ。
その徳田さんていう大家さんも、かっこいい人だね」
「……」
「寝てるの?疲れたよね。だけど栞菜、悪いけど起きてくれないか。きみを背負って寝室まで運ぶ自信が僕には無い」
「え〜」
「良かった。起きてくれた。
寝室に行くよ」
「涼介、おんぶ」
「何が、おんぶだよ。先に
寝室に行くよ」
「待ってよ。一緒に行くから。あ〜っ!照明を消して行った。ひどい」
「物価高騰中の為、電気代節約」
「涼介の、鬼〜!」
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