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お願いだから貸してくれ  最終話



古田社長が……辞める?


「実は、以前から家内の体調があまりよくなくてね。検査の結果、入院することになったよ。なるべく傍について居ようと思ってね。苦労をかけて来たことへの、詫びも兼ねて」


急すぎて、頭がついていかない自分がいる。


この不動産屋は、どうなるのだろう。
閉めるのだろうか。


「それで、この店についてだが」

……。


「川谷くんに頼もうと思ってる」

川谷さんは、椅子から立つと、私のデスクまで来た。

「ひと月ほど前に、古田社長から、この話しを伺い、今日まで考える時間を貰ってました」


「はい」


「私のような者が、この店を引き継ぐのは、山根さんにとって、とても不安なことだろうと思っております」


「そんなことありません。川谷さんなら、きっと大丈夫です」


「ありがとう。山根さん」
川谷さんは、そう云うと、深々と頭を下げた。

「そんな。頭を上げてください」


古田社長は、
「僕も、ちょくちょく顔を出すつもりでいるし、急に何もかも川谷くんに、押し付けたりはしないので、山根くんも心配しないでください」
そう云った。


「おはようございます」

驚いて振り向くと、澤田社長が入って来たところだった。

「澤田社長にも、川谷くんの支えになって欲しいと頼んだんだ」


「山根さんだったね。一度しか会っていないが、わたしのことを、覚えてますか」


「はい。もちろんです。でも、澤田社長がこの店のことを、となれば」


澤田社長は、
「建設会社には、わたしの席が空くのを、首を長くして、待ってた愚息がいますからね」
そう云って笑った。


「だが、愚息には目を光らせて行きますよ。それは、この店の為にもなるからね」


良かった。
澤田社長のお陰で、住む場所を見つけることが出来た人が、何人居るか分からない。


本当に、頼りになる人が来てくれて、私もだけど、それ以上に、川谷さんが安堵したことだろう。



「じゃあ、川谷さんが次の社長になるわけだ」

素麺を食べながら、涼介は云う。

「うん。宅建の資格も持ってるし。暫くは古田社長が川谷さんと、挨拶回りをするんですって」 


「そうか。慣れない間は、栞菜も神経を使うことも多いだろうが、その分ここでは、手抜きすればいいさ」


「それなら夏の間は、毎日素麺でいい?」

「毎日はちょっと。あ、ヤバ!」


「も〜。また七味を入れすぎたんでしょう」

私はブツブツ云いながら、冷蔵庫から、ヨーグルトを取り出すと、涼介に渡した。


「わるい」
そう云うと涼介は、ヨーグルトを掻き込んだ。


少しすると、鼻を摘んでいた指を離した。

「辛かったぁ〜。涙がまだ出てくる」


「毎回よく同じことを繰り返すよね」


「すいませんね。学ばなくて。でも」

「でも?」

「いや、別に何でもない」

「そう云うのが、一番気になるでしょうが。最後まで話してよ」


       ズルズル

「ねぇってば」

「僕の七味の入れすぎも、毎回だけど」

「うん」


「栞菜だって、蕎麦を食べる度に、ワサビを入れ過ぎてるのにって思っただけ」

私は黙って素麺を啜った。


部屋には、素麺をすする音だけが響いた。

        ズルズル

    ズルズル



翌朝。

「栞菜、まだ7時なのに既に、32度だって!」

「訊いただけで、気持ちが萎えそう」


外はもう熱射地獄が始まりつつある。

「お互いに、熱中症には気を付けましょうね」

「そうだな。じゃあ行くか」


今日も、それぞれの職場に向かう。


「靴を履いてるのに、アスファルトから、熱が伝わるって、異常だと思うけど」


「おはようございま〜す」

「おはようございます。暑いね〜」

パートの林さんも、うんざりしている。


「本当ですね。いよいよ地球が我慢の限界を超えそうで。 
もう超えてるのかもしれませんが」


「分かってはいるけど、冷房しないと、命が危険だしねぇ。
今朝もこの暑さのせいで、救急車で運ばれたのよ。
清風荘の新井さんが」


「え、大丈夫なんですか」


「ええ。意識は戻ったそうだから」

良かった。


また新しい1日が始まる。
気を引き締めよう。
ところで、川谷さんがまだ出社してない。


「川谷さんだけど」
と、林さんが話し出した。


「お母様が怪我をしたそうなの。妹さんからの連絡を受けて、急遽田舎に向かうことになったって。だから今日は、休むと連絡があったわ」


そんな……。


「訊いてください!」

緑の髪の流風くんが、飛び込んで来た。

「どうかしたの」


「2年前から、妹の桃香と2人で、路上ライブをしてるんですが」


だからこの髪色だったのか。


「一昨日、音楽関係者の人に、声をかけてもらったんです」


「それって、もしかして、CDを出すとか、デビューするとかの話しなの?」

林さんが、訝しげに訊いた。


「スゲェ。林さんのいう通り、うちからデビューしないか。CDを出すからって云って貰えたんです。夢のようで、まだ実感が湧かないんです」


林さんは、私を見た。

たぶん私と同じことが林さんの頭をよぎったのが、伝わってきた。


「どうしたんですか。山根さんも林さんも。オレと桃香がメジャーデビュー出来そうなんですよ」


「……おめでとうって云ってあげたいけど」

「けど、なんですか林さん」


私が流風くんに訊いた。

「お金を要求されなかった?」


「要求って言うか、CDを出す前に色々プロモーションが必要だからとは」

「幾ら払ってと云われたの」


流風くんはムッとした表情にになった。

「50万です。でもデビュー出来るならそれくらい」


「まさかもう相手に渡したの?50万」
林さんの声が大きくなった。


「まだですけど。次の給料が入ったら、貯金も降ろして払う予定です」


「まだ渡していないのね!」
林さんの声が、1オクターブ上がった。


「そうですけど。何なんですか。オレ、嬉しかったから、最初にこの店の人達に報告しようと思って。だから来たのに」


流風くんは、明らかに失望したようだった。

「あのね流風くん」

私の言葉も今の流風くんは、
訊きたくない気持ちが、見て取れた。


「それは詐欺よ」
林さんが云うと、流風くんは

「もういいです。喜んで貰えると思ったオレが馬鹿だった」


それだけ云って、彼は店から出て行った。


林さんは、
「店に来てから、まだ何にも仕事してないのに、疲労困憊よ」


川谷さんのことと云い、本当に大丈夫なんだろうか。

私の気持ちにも、暗雲が立ち込み始めていた。


小さな、ため息を付き、私は椅子に座った。

どうして心配ごとは、いっぺんに、やって来るんだろう。

電化製品が、壊れる時みたいに。


「皆さん、おはよう」
低いけど、よく通る声の澤田社長が店に来た。  


私たちの顔を見て、澤田社長は、苦笑している。


「不思議だよね。悪いことに限って、重なるって」


「澤田社長、大丈夫でしょうか。こんな状態で、やって行けるのか。怖くなって来ました」


澤田社長は頷き、そして云った。

「船はもう出航したんだよ。
山根さん。海は多少荒れているようだがね」

「……」


「何かを始めようとすると、
必ずと云っていいほど、高波がやって来るものだ。わたしも何度か経験したが、古田社長も同じだろう」


「はい……」


「何とかなるものだよ。山根さん」

「もし、何とかならなかったら」

「何とかならないなりに、何とかなるだよ。おちょくってるわけじゃないよ。経験上の話しをしているんだ」


「あの。入っても構わないですか?」

「いらっしゃいませ。どうぞ、おかけになってくださいませ」

林さんに云われて、50代と思われるその男性は、ホッとした様子を見せた。


「狭いから余計に暑いのよね。このキッチンは」

冷えた緑茶を湯呑み茶碗に、と思ったが、ガラスのコップに代えた。こっちの方が、たくさん入る。

この暑さの中、来てくださったのだ。
お客様も喉が渇いているだろう。


「よし!行くぞ」


澤田社長にも緑茶の入った、コップを置いた。

「お、ありがとう山根さん」


私は笑顔で社長を見た。


「覚悟が出来たようですね」

「もう港には引き返せません。それに、何とかならなくても」


「それなりに、何とかなる」

そう云って、澤田社長は笑った。


今夜は、どんなパンをお土産に、涼介は帰って来るのだろう。

楽しみを一つ、見つけた。


「いらっしゃいませ。暑いですね」

緑茶の入ったガラスのコップに、真夏の陽射しが当たって、虹色に光った。


「どのような、お部屋をお探しでしょう」


      了










































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