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お願いだから貸してくれ  6話


梅雨が明けた。

朝から太陽光が、ジリジリと容赦ない。


「熱帯になった日本の夏が、今年も始まるぞ」
涼介が朝食を食べながら、早くもウンザリ顔で云った。


「そう云えば、栞菜は真夏でも半袖の服は着ないね。暑くないの?」


「日焼けしたくないから」

「ふ〜ん。でもパジャマくらいは半袖でもいいんじゃない」

「エアコンが苦手だから、いいの」

「確かに僕が暑がりだから、エアコンは、一晩中つけてるもんな」


「そろそろ行かないと、遅刻するよ」

涼介は、時計を見て慌ててオレンジジュースを飲み干した。


「気をつけ行ってらっしゃい」

「うん。栞菜もな」


そう云って、私たちは、いつもの場所で、手を振りながら、別れた。


店に着くと、パートの林さんが、若い女性と話しをしている。

「林さん、おはようございます」

「おはようございます。山根さん」


「栞菜さんだ」
「おはよう和歌ちゃん。引っ越すって本当なの?」

「はい本当です」


「そっかぁ。寂しくなるな」

「ありがとうございます。でもしゅうと、決めたことなので」


「柊くんは、もう」

「はい。一足早く、引っ越しました」

林さんが、懐かしそうな表情になった。

「柊くんと和歌ちゃんが、部屋を探しに来てくれた日を、
よく覚えてる。だから信じられなくてね」


和歌ちゃんは、明るい声で、
「あの時、私と柊に、今の住まいを案内してくれたのは、林さんでしたね」

「そうだったわねぇ」

「いい部屋を紹介してくれたので、楽しく過ごせました。ありがとうございました」


林さんは、泣きそうな顔をしている。
「年寄りを泣かせるもんじゃないわよ」


「年寄りだなんて。林さんは、お若いですよ」


「おはようございます」


「あ、社長さん。おはようございます」

「谷さんか。おはよう。引っ越すんだって?」
「はい。お世話になりました。まだ数日はいますけど」


「そうか。でも信じられないなぁ。ずっとこの街に居ると思ってたからね」


「……私もです。そろそろ帰ります。部屋を片付けないと。家賃を納めに来ただけなのに、長居しちゃって」


和歌ちゃんは、外に出ると、
笑顔で、手を振り帰って行った。


「せっかく和歌ちゃんと、会話することが楽しみだったのにな」

そんな言葉を口にした私のことが、よほど寂しそうに見えたのか、林さんが私の肩を、
ポンポンと叩いて、励ましてくれた。


和歌ちゃんと、柊くんが二人で住む部屋を探しに、この店に来たのは、10年近く前になる。


二人とも20歳で、恋人同士。
同棲することに、しましたと柊くんは云ったそうだ。

その後の2人の仲のいい姿を、店の皆んなは微笑ましく見守っていた。

私が2人のことを知ったのは、たまたま店に顔を出してくれた時だった。
それ以来話すようになった。
一年前になる。

齢が近いこともあり、2人と、特に和歌ちゃんと話すのが、楽しみになっていた。


結婚するとばかり思っていた。
私も。
皆んなも。


だから、柊くんから、
「別れました」と訊いても、信じられなかった。


こんなデリケートなことに、
「どうして?」
なんて、訊ける訳はない。
でも心の中で、私は2人に云っていた。


(どうして)と。



「今年の夏こそ、泳ぎに行こう」
そう、涼介に云われても私は黙ったままだ。


「結婚する前から、栞菜とは
一度も泳ぎに行ってない。
どうして嫌なの」


「嫌なものは嫌なのよ。理由なんか無い」

私はそれだけ云って、シャワーを浴びる為に、椅子から立ち上がり、

「涼介、ごめん」

それだけ云って、浴室に向かった。

私は自分の体を見る度に、心の底から悔やんだ。
いつも涙が溢れた。


「本当は、涼介と海に行きたい。行きたいよ」

それを出来なくしたのは、紛れもなく自分自身だ。


シャワーはいい。
涙でぐしゃぐしゃな顔を、あっという間に洗い流してくれる。


結婚したての頃に、涼介から

「一緒に風呂に入ろう」と、
よく云われた。

「恥ずかしから」
と、私は逃げた。


ずっと、死ぬまで続くのだろうか。

逃げ続けるしかないのだろか。

私の、この先の人生も。



お店の定休日に、私はホームセンターに行った。

カーテンを、夏用に変えたくなったのだ。


「いいのが見つかったら、涼介に相談してみよう」


柄物より、やっぱり無地の方がいいかな。

涼介は、案外ブラインドが好きかもしれないし。

だから今日は下見ということで。


私はホームセンターが好きだ。ソファーに座ってみたり、ベットに寝転んでみたり、家電品を見るのも楽しい。


そんな風に、色々なコーナーを見て回っていた。


「和歌ちゃんだ」


脚立や踏み台のコーナーに、
彼女はいた。


「これから引っ越すという時に買うのかな」


和歌ちゃんは、幾つもの商品に、昇ったり、降りたりを繰り返してる。


「かなり念入りに試してる。
もしかしたら、カーテンを外すのに必要なのかもしれないな。和歌ちゃんは背が低いから、とどかないだろうから」


柊くんは、自分の物だけ持って、さっさと引っ越してしまったようだ。


高い場所にある、棚に置いてある物くらい、片付けてあげたらよかったのに。


その点は、私は柊くんに失望していた。


和歌ちゃんは、ようやく買う品を決めたようだ。

3段の小さい脚立だった。


それを重そうに、カートに乗せるとレジに向かった。


配達を頼むとばかり思っていた私は、会計を済ませた和歌ちゃんが、脚立を抱えて歩き出したので、驚いた。


私は和歌ちゃんに駆け寄った。

「栞菜さん。どうして」

「こっちこそ、どうしてって訊きたいわ。それを持って電車に乗るの?駅からも結構歩くでしょう」


和歌ちゃんは一瞬、動揺したように私には見えた。
だけど、すぐに笑顔になった。


「やだなぁ。タクシーで帰るんです」

「タクシー」

「そうですよ。ほら私は車を
持ってないし。そもそも免許証だって無いんですもん」


「タクシーかぁ。それは浮かばなかったな」


「おっちょこちょいな栞菜さん」
そう云って、和歌ちゃんはまた笑った。


「本当よね」
私も笑った。


「一緒に乗って行きます?
タクシー」

「じゃあ、私が払うわ」

「やったね」


脚立は、私が持つことにして、二人でエレベーターで、下まで降りた。


タクシー乗り場には、誰も並んでいない。

運転手さんに頼んで、トランクを開けて貰い、脚立を入れると、私たちはタクシーに乗った。


ここからだと、和歌ちゃんのマンションまで15分くらいで着くはずだ。


幸い平日なこともあり、道路は空いていた。

信号に、つかまることもなく、10分ちょっとでマンションに着いた。


トランクから、出した脚立を和歌ちゃんは抱えると、
「あとはエレベーターなので、自分で持っていけます。
栞菜さん、ありがとう」


「とんでもない。脚立から落ちないようにね」

「大丈夫。じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみ和歌ちゃん」


昼間の熱気が、そのまま残っている。
まるで蒸し風呂だ。


「半袖かぁ。随分着てない」


家に着いた私は、ボンヤリとテレビを観ていた。
歩き過ぎたらしく、ふくらはぎが少し痛い。


「ただいま」

あれ?涼介だ。


リビングに入って来た涼介に、私は訊いた。


「お帰り涼介。まだ7時半だよ。今日はパン教室の日じゃなかったの」


涼介は、バックを降ろすと
ソファーに座った。


「自分でも分からないんだけど、行く気にならなかったんだ」


「そう。珍しいね」

「初めてだよ。どうしたんだろう」


「冷たい麦茶でも持って来ようか」


「ありがたい」


私は冷蔵庫から、麦茶の入ったタッパーを取ると、大き目のコップに注いだ。


「はい、どうぞ」

「ありがとう。いただくよ」

涼介は、喉を鳴らして麦茶を飲んだ。


「は〜うまい。栞菜は昔ながらのやり方で、麦茶を作ってくれるから、本当にうまいよ」

「水出しだと、簡単だけど、麦茶の香ばしさが無いのよね。やっぱり大きなヤカンで作った麦茶の方が、美味しいよね」


「まったくだな」

「今日ね、ホームセンターに行ったのね。そしたら最近まで、彼氏と暮らしてた和歌ちゃんていう30手前の女の子にあったの」


「30手前でも女の子なんだな」


「小柄で顔も童顔だし、可愛いの。1人で脚立を買いに来てた」


「脚立を」

「そう。彼女、もうすぐ引っ越すから、片付けに使うのかなって思った。彼氏は先に引っ越しちゃったし」


「男の方は、いないんだ」

私は頷いた。
「長いこと一緒に暮らしてたから、結婚するものと思ってたんだけどね」


涼介は、何も云わなかった。

次の瞬間、お互い顔を見合わせると、同時に立ち上がり、急いで外に出た。


「タクシー、つかまえよう」
涼介が、そう云った時、運良く空車のタクシーが通りがかった。


私たちは、急いで乗り込むと、和歌ちゃんの住所を告げた。

「運転手さん、その前に寄って欲しいところがあります」


店の前で、タクシーから降りた私は、裏口の鍵を開けると、店内の鍵の保管場所にある、和歌ちゃんのマンションの合鍵を取ると、急いでタクシーに引き返した。


「使わないで済むことを祈るよ」
涼介は云った。


マンションに着いた私たちは、エレベーターを待たずに階段を、駆け上がった。


4階の和歌ちゃんの部屋のインターフォンを鳴らす。

出ない。


「間に合って。お願い」
私はドアの鍵を開けて、部屋に入った。


そこには、床に座り込む和歌ちゃんの姿があった。

私は震える彼女を抱きしめた。


「間に合って良かった」
涼介が小声で云う。

昼間買った脚立は、倒れていた。
そして上からロープが垂れ下がっている。


「和歌ちゃんの辛い気持ちは、私にも分かるよ。でもね」


「栞菜さんに、私の気持ちが分かるわけない。涼介さんみたいな優しい旦那様が居る人になんか、分かるはずない!」


暫く和歌ちゃんを、抱きしめていた私は、背中に回していた手を離した。


和歌ちゃんは、強い光を放つ目で、私のことを見ている。


私は、フゥッと息を吐くと、
Tシャツを肘まで、捲った。

和歌ちゃんは、驚いていた。


涼介は、目を閉じた。

「私にも分かるよ。和歌ちゃんの気持ち」


私の肘の内側には、傷跡がくっきりと、残っている。

付き合ってた人に私は騙されたことがある。


信じていた人に、裏切られ、
騙されていたことに気付いた時、私は何の躊躇いもなく、
カッターを手にしていた。


涼介と再会する、ずっと前のことだ。


その夜、和歌ちゃんは声を上げて泣いた。
気がつくと、空が明るくなっていた。


泣き疲れて眠った彼女を見とどけると、私と涼介は、自宅へと戻った。
和歌ちゃんは、もう大丈夫だろう。


「涼介は驚いていなかったね。どうして」

「栞菜、僕たちは夫婦だよ。
いくら部屋の灯りを真っ暗にしても、裸になれば、自然と見えてくる」


「……知ってたんだ」

「うん。知ってた」


私は何て云えばいいのか……。


「今はね、傷やアザを隠す化粧品があるんだ。水に濡れても取れないそうだよ。
だから栞菜は海にだって行けるし、半袖も着れるんだ」


私は、何度も何度も頷いた。


「今度、2人でデパートに買いに行かないか」


「涼介」


「ん?」


「ありがとう」


「愛する妻が苦しんでいるんだ。当然のことだろう?」

そう云って涼介は、涙を指で拭った。


3日後。

和歌ちゃんは、実家に帰って行った。

「暫くゆっくりしたら、また住むところを探します。
この街のこと、私は好きです。今でも。お世話になりました。皆さん、お元気で」


その言葉を残して。
彼女らしい、夏空のような笑顔も一緒に置いていった。



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