わたしの哲学者!

哲学、哲学者、人それぞれ

「大学で哲学を専攻しています」と言うと、すかさず、「好きな哲学者とかおるん?」と聞いてくる人がいる。

正直めんどくさいし、言ってもわからんやろと思うくらいに専門性の高い哲学者もいるから、「いや、そういうのは〜笑」と、だいたい適当に流している。

ほんとは、「私にとっての哲学者はみうらじゅんです。」と言いたい。誰が哲学者であるかということは、人によって違うと思っている。

「誰の思想が好きか?」という質問としての「好きな哲学者とかおるん?」の答えは、みうらじゅんで、その中でもこの『自分なくしの旅』が、彼を私にとっての哲学者たらしめる理由の一つである。

wondering 少年

この本は、みうらじゅんが芸大生を目指して浪人、上京し、予備校に通った二年間の話を綴ったエッセイである。(つまり彼は二浪している)

家族、友達、恋愛、将来、自分、対他関係、憧れ、彼の悩みや迷いは様々で、それらが目まぐるしいスピードで彼を取り巻いていく。

その心情は苦しくも、エネルギーに満ち溢れ、怠惰にも感じられる彼の浪人生活の中にも何かが燃えていることがわかる。

そのことに自覚がなくたって、いいんだと、自分をなくすことって、自分と闘い続けることだと思う。


「自分なくし」という言葉を知ったのは高校生の頃。「自分」について悩んでいた時期に、この言葉がふと耳に入ってきた。たぶん母がこの本の存在についてチラッと教えてくれたんだと思う。

なるほど、個性とか自分らしさに拘る必要はなくて、自分の全ての思想や言動、外見や周囲との関係が「自分」を構成しているという事実のみに拘ろうと考えるようになった。

自分を認める前に自分と向き合うという、この決まった順序があるんやな。


彼が「自分なくし」という考え方に到達した経緯は、決して単純明快なものではない。苦しんで、もがいて、失敗して、自分のことを嫌いになって、、、その一つは一つを知らない間に乗り越えて、「自分」という箱の中に入れていたんだと思う。

私は高校生の時に完全な「自分」が出来て、それが崩れることはないと思っていた。今思えばただの若気の至り、若さゆえの暴挙だ。

しかし、大学生になって今までとは異なりすぎる環境に身を置き、様々な人物と関わって経験し、それは崩れ始め、そのカケラを拾うことすら困難であった。もろい自分に嫌気がさしたり、そのようになっている理由もわからず、100の自分が0になり、−100になった、、、。

「自分なくし」という言葉は、そんな自分さえも「自分」として包み込んで、共に生きていくことができるような、魔法だと思う。

rebuilding now😹😹

さて、現在は−100の自分からの再建を図っている途中です。今は35くらいかなあと、思う。前回の「自分」よりも多くの要素が詰まっているし、一つ一つの要素の出入りも自由だ。

今手に入れたい要素は、「状況判断能力」「配慮に基づく言動」「伝える力」だ。これらの三つに注意して、日々生活し、身につける研究をしている。みうらじゅんとは「自分のなくし方」が異なるけど、こういうのも自分だと、言えるんだろうなあ。

しかし、死ぬまで自分自身と向き合う姿勢があるということは彼と私に共通している。人生のモットーともなりうる「自分なくし」という思想、皆さんはどう捉えるだろうか。






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