怒りは恐れ?

普段そこまで怒ることは少ないですが、今日は勤務中に久々に腹の立つことがありました。

その具体的な内容はさておき、自分の怒りが込み上げるポイントは、集約すると、「自分の存在が無にされたように感じるとき」かなぁと思います。

例えば、「自分の意向は無視して上から指示されたことに従わなくてはならない」とか「自分が提案した渾身のアイディアを完全に否定された」とか「役割的・立場的に自分に相談してくれないと困るのにスルーされて進んでしまった」とか「私がされたらどう思うかを考えないで自分のやりたいことを思うままに実行している」とか。

怒りのポイントは、もちろん自分のことだけでなく、いわゆる「義憤」とかももちろんあると思いますが、それも「自分の正しいと思っている価値観を無にされた」ことの怒り、と考えるとやっぱり「自分の存在が無にされたことの怒り」に繋がるのかな、と思います。

ではなぜ、自分の存在を無にされると怒りが湧くのか?
そのひとつには、恐怖心ということが確実にあるなと思います。

自分という存在がこの世からまるで何もいないかのごとく扱われ、消えてしまうことの恐れ。
そんな大袈裟なとも思いつつも、やっぱり自分が無いことにされるのは怖い。そして「そんなことはない!」と必死で抵抗し、自分自身を防御する行動の表れが怒りなのかな、とふと思います。

ところが、上記のことをされても何も怒りを感じない方もいると思います。

そういう方は多分、完全に自己肯定感が強く、周りから自分の意見や価値観や努力を無にされることがあっても、自分で自分に価値を与えてあげられる人なのだと思います。何とも羨ましい限りです。

私はまだ自己肯定感がどん底の状態から何とか少しずつ這い上がってきている状態で、まだまだ闘病中の身の上のため、自分の存在を無にされる言動に、まだまだ振り回されているのかもしれません。

とはいえ、以前の私に比べたら、そうした言動に対して確実に冷静に反応できるようになってきたな、とも感じています。

おおよその部分は「まあ仕方ないかな、別に私そのものが否定されたわけではない」「悪気はきっとないよね」と考えスルーし、明らかにおかしいと思う点だけ冷静に反論し、反対だけして代案を示さない人にも粘り強く、別の案を出す…とそれなりに健闘している気がする、多分。
これも闘病生活の成果だ、と思うことにします。

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