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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(29)

29.

日記という形式、言語という媒体。書かれたもの。会話の記録。身振りの記録の不完全性は、感覚モダリティ間での注意の分配の傾向の 帰結だろう。つまり、会話をするとき、人は会話の内容を直接認識すると思いなす。媒体としての言語も、音声も、音響も透過的であり 意識されることはない。実際には重要な相手の表情、音調、間合いは記憶から脱落し、記号化可能な部分のみが残る。それを想起しつつ、 手帖に記録するときも同じだ。もしかしたら第二次想起においてありありと手の表情、音調、間合いが再現されるかも知れないが、 第三次過去把持の装置である手帖には、それらは記録されないか、されたとしても極めて部分的な仕方でしかないだろう。 だが、会話の相手が盲者であったとしたら?逆に言語情報のみを記録したとき、感覚モダリティの相違は目立たなくなる。

一方で、言語そのものは、音声言語も文字言語も視覚の欠如に対してロバストに見える。 ただし後者は点字等の触覚を媒介とする前提があるから、この物語が19世紀末ではなく1世紀後に 時代設定されていたとしたら、ディスプレイへの表示は何もしていないことに等しい。キーボードは問題ないが、 マウスやタッチパネルといった視覚と触覚の相互作用を前提としたデヴァイスは役に立たない。ダイヤル式の電話機、 ボタン式の携帯電話は問題ないが、スマートフォンはもっての外ということになるだろう。現時点では役に立たない 音声対話エージェントを使えというのは無責任極まりない姿勢だし、幾ら音声認識をし、音声で応答をしても、 その結果がディスプレイに表示されるのでは全く無意味なのである。パネルに触れても、それに対する反応が 視覚によってしか認識できないのであれば、用を為さないのだ。

視覚の欠如、聴覚および触覚による代補。特に「声」の問題。削除されてしまった医師マルタンの発言にも、声の問題に ついての言及があった。声を聞き分けることは、顔の相貌認識の代補としての、声による個体の同定なのだ。 ディドロが「盲人書簡」で言及する、サリニャック嬢の場合、声の質からの性格の類推に及ぶ。 (勿論、それは外れることもあるが、それは別に相貌と性格の対応づけの場合でも同じことだろう。) ここで、フォルマント合成のような規則合成方式に基づく自動音声合成による「誰のものでもない声」が 響いたら、一体どういうことになるのかを考えてみるのは、今日における同じ問題の所在を確認するためには 有効であろう。不気味の谷を越えたとしても、恐らくは触覚によって、ロボットであることは気付かれてしまうだろうが、 人工的な音声合成の結果はどうだろうか?

そもそもベートーヴェンの田園交響楽を、録音された記録の再生で聴いたらどうであったか? 何度も同一の演奏が再生可能な装置が介在したら?その音楽は「どこで」響いているのか? 視覚においては、二次元の画像に奥行きを読み取ることの困難は良く知られているが、ステレオによる 再生の方はどうか?「魔法の鏡」であるタッチパネルディスプレイの架空現実という、先天盲の視覚ハンディキャップを 負っているものにとって恐らくはもっとも疎遠なものが現実を侵食しつつある21世紀の現在の状況を、 牧師とジッドはまさに先取りしようとしている。そしてその道具に音楽が利用されてしまっているのだ。 ステレオ再生はおろか、蓄音機ですら普及する遥か前の時代設定の中で繰り広げられる「田園交響楽」の物語は、 だが、音楽が持つ大きな力の濫用を予言しているかのようだ。

盲人のオルガニスト、鍵盤を触れることと音響との対応づけ。視覚的な楽譜を介さずに、演奏過程での 視覚によるフィードバックなしに、手の運動がそのまま音響になる。オルガン演奏の手引きをするのが 牧師ではなくジャックであること(ちなみにドラノワの映画ではジャックは神学生ではなくオルガニスト であるという設定に変更されていて、少なからぬ変換が生じている)は決して些細なことでもないし、 ヌーシャテルのコンサートにジェルトリュードを連れて行ったことを、非音楽的な家庭における 例外事としてアメリーに批難されることはあっても、牧師自身は音楽を演奏することはしないから、 運動感覚と音響との関連付けについては、彼自身の裡に回路を持っていないことになる。 結果として、音楽や舞踏については他人任せということになる。(ドラノワの映画では、ジャックと踊る ジェルトリュードのシーンが、ジッドの原作には全く欠けている場面設定を追加することさえして、 「上演」している。ジッドの原作では、いわば間接的に牧師の手帖への記述で言及されるだけなのに 比べると、ここでも映画というメディアの特性に基づく差異は際立っている。一般に映画は、 開眼手術前のジェルトリュードが備えているモダリティと、それを活用する能力の卓越と、 それに対する牧師の無反応ないし無力を強調する傾向にあるようだ。) ジャックに対する嫉妬の要因の一つは、自分が持っていないモダリティの回路を彼がジェルトリュードと 共有することに起因するものではないか。それは自分自身の聖書の自由解釈の外部にジェルトリュードが出て、 彼女自身が自由解釈をすることを恐れて禁じる態度と並行している。

「田園交響曲」はベートーヴェンの作品の中でも些か特異だ。それは標題音楽であり、描写的な側面を備えている。 (一方でそれは外界の音響の再現ではない。それは単純な心的印象の音楽化でもない。そこには回想が、想起が介在しているというのだ。 だが、この点については後で戻ることにしよう。) それが聴覚から視覚イメージへの変換の口実となる。音色と色彩の共感覚が媒介を保証するものとして持ち出される。 逆変換が可能であるかのような錯視が、この音楽に限っては可能になるのだ。もしかしたら、単純な描写音楽ではなく、 標題音楽でないことすら、そうした逆変換の成立を容易にするファクターとして持ち出されるかも知れない。 だがそれならばいっそのこと、描写的でも標題性もない、徹底して抽象的な音楽ではなぜいけないのか?あるいは、 心から心へ、というキャッチフレーズそのものの音楽であればどうだったろうか?いずれにしてもそれらならば、 そもそもが変換自体が不要ではないだろうか?クロスモダリティ自体を議論する必要がなくならないだろうか? ここで音楽は、視覚の欠如を問題にしないどころか、クロスモダリティを介して、却って視覚の欠如とそれの (想像力による?虚構による?)補完を提示するために利用されているのではないか?

「田園交響曲」が単なる描写音楽であることができず、単なる標題音楽(?とはしかし何か?)でありえないのは、 ベートーヴェンの音楽の理念の問題であるとともに、技術的な側面、つまり彼が容易に楽想を思い浮かべ、即興的に作品を 生み出していくタイプの天才的・サヴァン的なやり方ではなく、動機とその展開のパターンをスケッチし、蓄積して 音楽を構築していくやり方をとったことも考慮に入れるべきだろう。更には現実に彼が聴覚にハンディキャップを負っていて、 現実に聴いたものを音楽的に組織するという直接的なマップができなかったという制約がそうした手法や理念をいわば下部構造と して支えていたと考えることもできるだろう。彼は聴覚のみならず、感覚の全てのモダリティを経由して自分の中に蓄積した印象を、 しかもその場で音楽化するというやり方ではなく、後で回想して再構成するという手法をとったのだ。(実際、彼は自筆譜に、 はっきりと「回想」という言葉を書き付けている。)従って、見かけとは異なって、ここでは単純な聴覚と視覚の変換も 成立しないことになるだろう。

だが、それでもなお「田園交響楽」は標題的で描写的であることは否定しがたい。小川のせせらぎ、鳥の鳴き声、風の音、 雷鳴、嵐、雨の音、温度や湿度の感覚、あるいはより身体的な衝撃として感受できるかも知れない光と影のコントラスト。 そういったものを通して外界から受ける印象とそれに対する感情的な反応(これは身体の生理的なレベルでの反応と 分かちがたく結びついている)を音楽化すること。ベートーヴェンは先天性の聾者ではないし、音楽家としての訓練を 受けたから、聴覚印象の記憶のストックは豊富であっただろう。それをジェルトリュードが聴いたときに何が起きるのか?

盲人により作曲され、演奏されることの多い筝曲・地歌では風の音、虫の音などといった聴覚的風景を喚起する 作品が多いというように言われる。視覚が優位に立てばどちらも単なる沈黙として区別されることはなくなるかも 知れない月夜の静寂と雪の夜の静寂の差異を聴き分けることができれば、それを音楽的な表現にもたらすことも 可能だろう。ディドロの報告するサリニャック嬢がそうであるように、ジェルトリュードの聴覚も、視覚に頼ることのできる人間に 比して、遥かに繊細に研ぎ澄まされたものであったことは想像に難くない。記憶に基づく印象の音楽化であったとしても、 そこに視覚で世界を認知する人間であれば聞き落としてしまいかねない何かを聴き取った可能性はあるだろう。

ジッドの牧師が記録するジェルトリュードの反応は、そうした文脈においてみたときに、何か奇妙なものである感じを拭えない。 「田園交響曲」を聴いた後のジェルトリュードと牧師のやりとりは以下のようなものだ。

– Est-ce que vraiment ce que vous voyez est aussi beau que cela ? dit-elle enfin.
– Aussi beau que quoi ? ma chérie.
– Que cette « scène au bord du ruisseau ».
Je ne lui répondis pas aussitôt, car je réfléchissais que ces harmonies ineffables peignaient, non point le monde tel qu’il était, mais bien tel qu’il aurait pu être, qu’il pourrait être sans le mal et sans le péché.

何よりもおかしいのは、ジェルトリュードが田園交響楽の聴取の印象を、自分が聴覚で認知している自然と直接比較するのではなく、 それを視覚的な風景の翻訳であると受け止めていることである。まるで聴覚で認知している世界と音楽の差異を埋めるものが 視覚であり、世界は視覚的な美に満ち溢れはしても、ベートーヴェンの音楽ほどは聴覚的には豊かではないかのようではないか? これは明らかに視覚で世界を認知している人間によるでっち上げだろう。音楽的描写というのは、視覚的に認知できる風景の 絵画的な把握を音楽に翻訳したものではないだろう。勿論、視覚で世界を認識できる人間は、ベートーヴェンの音楽を聴いて、 風景を視覚的に思い浮かべることができる。聴覚と視覚の共同の経験を持っているからだ。だが、ジェルトリュードにはそれはない。 ないからといって、その欠如をベートーヴェンの音楽によって気付かされたりするだろうか?彼女にとっては、聴覚や皮膚感覚、 嗅覚、体性感覚といった視覚以外の感覚的モダリティを総動員して受容した自然の美しさ、そしてそれによって惹き起こされた 情緒的・感情的な反応を、ベートーヴェンの聴覚のみに働きかける音楽が喚起するイメージとを突き合わせる作業がまず あるのではないか?それが皮膚感覚や嗅覚、体性感覚といった他の感覚の記憶やその時に感じた情緒的・感情的な 印象をまざまざと想起させるものであるかが問題になるのではないか?

要するにここには、さすがにこればかりは牧師の、ではなくジッド自身のジェルトリュードの経験に対する想像力の欠如が 現れているのではないか?あるいは視覚優位のイデオロギーをジェルトリュードに押し付けているのではないか? そしてこの錯誤の果てが、第一の手帖の末尾の、あのジェルトリュードが想像する風景の視覚的描写という虚構なのではなかろうか? 少なくとも言えそうなのは、こんな人間に盲人の認知の成長の過程を記述することを期待するのは無駄だということだ。 もしジッドが気付いてやっているのだとしたら、それはそれで少なくともジェルトリュードと読者にとっては欺瞞的な振舞いだし、 気付かずにやっているのだとしても、その自己中心性は最早明らかだ。こういうのを誠実さの欠如というのではないのか?こういうのを 愛の欠如というのではないのか?一体、ジッドは誠実さや愛ということで何を考えていたのか?

ジッドはかつて、フランス語ではなく音楽で 書きたいといった、象徴派的な純粋表現への志向を感じさせる発言を「アンドレ・ワルテルの手記」にて書き留めているが、 現実には彼が熟達したフランス語を媒体とした物語の構築と同様のプロセスが、ベートーヴェンの「田園交響曲」の創作でも 起きたことをどこかで忘れているのではないか?そしてその一方で、言語という媒体を用いて、しかも物語という 第三次過去把持に関わる活動が、彼が問題にし続けた「自己」の構造の根底に関わっているものであり、またそれが 個体の生命の限界を超えた記録を志向することについての自覚は彼には確かにあったようなのだが、にも関わらず、 その外部にルソー的な直接的な経験の楽園があるという幻想にとらわれていたのと相関するように、諸感覚の モダリティ間の相互作用や、それが学習され、蓄積される無意識的な過程の存在を無視し、その結果として盲人の物語を 固有の人格と世界認識のモダリティを備えた人間の試行錯誤に満ちた発達の物語としてではなく、奇跡の、恩寵の物語として しまったのではないか?ここでは奇跡や恩寵は、無知が生み出す空隙を埋めるものとして用意されているように見える。

その帰結として、まずその無知の結果である空隙に、ジッド自身が用いた言い方を借りれば、まさに「悪魔」が 忍び込む余地を作ってしまったのではないか。牧師の問題は外部なき手記という形式を選択した作者ジッドの問題でもあり、 聖書の自由解釈は、そうした巨大な問題のほんの一部の表層、一つの兆候に過ぎないように思われる。 そしてまた、折角参照された音楽について言えば、三輪眞弘による音楽芸術の規定、すなわち「人間ならば誰もが 心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、 そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、 そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」という規定を全く理解せず、音楽が物語の中で持ちえたであろう 潜在的な力に気付かずに、自分が思いなした奇跡や恩寵の契機として利用するに留まったのではなかろうか。


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