見出し画像

言葉の宝箱0894【ただ生かすだけの処置を施すのは医師ですが生かすことを望むのは家族】


『終の盟約』楡周平(集英社2020/2/10)


・エンターテインメントから経済小説まで、様々なタイプの作品を世に送り続けてきた楡周平が、新作『終の盟約』で注目したのは、“人の命”である。“どう死んでいくか”といってもいいかもしれない。そうした万人に響く題材を、著者はいくつもの視点を用いて、本書で丁寧に語ったのである。
 中心に据えたのは、具体的には認知症だ。認知症を患うことで、人が変わってしまう。本書であれば、温厚で洒落者、そして絵が得意な医師として知られていた藤枝久が、この病気によって服装に無頓着になり、それどころか嫁の入浴姿を覗き、さらにその裸を夥しい数のカンバスに描くようにさえなってしまうのだ。八十年以上もかけて培ってきた人格が、脃くも崩壊してしまうのである。その心の崩壊のスピードに較べ、身体が蝕まれていくスピードは遅い。結果として、心が壊れたままの状態で、認知症患者は生き続けるのである。ガンのように余命宣告があるわけでもなく、いつまで続くともしれない介護の日々に家族を巻き込みながら……。
 楡周平はその家族を丹念に描いていく。久の長男で医師として経済的にも成功している輝彦。その弟で弁護士として活躍しつつも、カネ目当ての仕事はやらない主義を貫き、結果として経済的にゆとりのない真也。この二人の息子たちと、それぞれの妻の心が、介護の当事者となることでどう変化するのか(変化しないのか)を、それぞれの視点を通じ、読者は知っていくことになるのだ。おそらく誰かの心に自分を重ねながら。
 本書では、結果的に久の家族は長期にわたる介護生活を送らずに済んでいる。久が介護施設に入って程なく亡くなったからだ。だが、それですべてが丸く収まるわけではない。次は相続だ。自分が認知症になる可能性を意識し、さらには介護の現実を強く認識したが故に、金銭に敏感になる者も出てくる。それがまた家族に波乱をもたらすのだ。兄弟の経済格差、さらには嫁という“外部”の存在を活かして、楡周平はそれぞれの想いの違いを浮き彫りにしていく。実にくっきりと。 さらに本書にはミステリ的な要素も加味されている。久の死そのものにも、疑惑や欲望、あるいは陰謀が絡みついてくるのだ。これもまた作品に緊張感をもたらす。 そうした巧みに造られた物語を読みながら、読者は、認知症や介護の現実を深く知り、さらには尊厳死や安楽死について考えさせられ、自分や家族のこれからを見つめ直すことになる。そんな小説だけに、結末において一つの試練を乗り越えた登場人物たちの姿を見届けてなお、彼等が今後どう生きていくか知りたいと強く感じた。それほどに自分を重ねて読ませる小説なのである。

・認知症になった親が死を望んでいたらあなたはどうしますか。
ある晩、内科医の輝彦は、妻・慶子の絶叫で跳ね起きた。
父の久が慶子の入浴を覗いていたというのだ。
久の部屋へ行くと妻に似た裸婦と男女の性交が描かれたカンバスで埋め尽くされていた。
久が認知症だと確信した輝彦は久が残した事前指示書
「認知症になったら専門の病院に入院させる。
延命治療の類も一切拒否する」に従い、
父の旧友が経営する病院に入院させることに。
弁護士をしている弟の真也にも事前指示書の存在を伝えた。
父の長い介護生活を覚悟した輝彦だったが、程なくして久は突然死する。
死因は心不全。しかし、余りに急な久の死に疑惑を抱く者もいて――。
認知症の父の突然死。医師同士による、ある密約。
医師の兄と、弁護士の弟は真相にたどり着けるのか。

*事前指示書とは、
自らが判断能力を失った際に、
自分に行われる医療行為に対する意向を
前もって意思表示しておく文書のことだ。
患者の意思が明確である以上、
医師も意向に沿った治療を施さざるを得ない P19

・病を治療することだけが医師の仕事ではない。
看取るのも仕事の一つである P20

・人間って、ある年齢を超えると、
生まれた当時の姿に戻っていくものなのかもな P31

・すべての人間に平等に与えられているのは二つの瞬間しかない。
生命を与えられる瞬間と、死を迎える瞬間 P54

・ただ生かすだけの処置を施すのは医師ですが、
大抵の場合、生かすことを望むのは家族(略)
患者の苦痛よりも、
精一杯やったという満足感と、一人の人間の死を納得するために P57

・死はこの世に存在する生命の宿命である。
生を享けた瞬間から、
死に向かってのカウントダウンははじまっているのだが、
多くの人間は普段、そんなことを意識することはない(略)
若くして同年代の友人、知人の死に直面することがあっても
「不運」「運命」と片づけ、明日は我が身とはまず考えない。
平均寿命という目処があり、
圧倒的多数の人間が、その前後まで生きるからだ P88

・医者、弁護士には共通点がある。
医者は病、弁護士は争い事と、
できることなら世話にならずに越したことがない職業であることだ。
しかし、そうはいかないのが人の世 P100

・おカネ持つと世界が一変する(略)
付き合う人たちの変わるでしょうし、
出入りする場所だって変わってくる P351

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?