P!NK「子供にとって母は神のようなもの」
P!nkがドキュメンタリーで語った言葉。
私はこれに罪悪感を感じた。
それまでは、すべてに裏切られたと自己憐憫や怒り、無価値を抱えていた。
感情の矛先は、元家族に向かっていた。
私の過去は、以前書いた回顧録にある通りである。
しかしその異常な家庭の中で、子供だった私にとって、唯一毅然と立ち向かう彼女が、すべての「正解」だった。
彼女の言葉に従い歩き方まで模倣すれば、「完璧である」と信じて疑わなかった。
10歳で離婚してくれと懇願したとき、「現実的にできない」と答えた彼女に失望しながらも感情的ではない答えに納得もした。
執着故に、苦しむ彼女への助けを何度も拒まれ、傷ついた。
両親の仲裁に入った私に膝を折って嗚咽する姿には、気持ち悪くなった。
やがて、病んだ私が電話することが度々あったため、「電話が恐ろしい」と怯えた。
私は、人を傷つける怪物であり、無価値な人間で、彼女が度々口にした「お前は父親そっくりだ」という言葉を否定しなくなった。
P!nkが苦し気に言った冒頭の言葉は、薄々感じはじめていた事だけに胸を深くえぐった。
無邪気に「愛してくれ」と全身で求められることの、なんと恐ろしかったことだろうか。
深く信じるほどに、僅かなことで傷つく、自分ではない存在が子供である。
母親である前に女である。
女である前に人間である。
そして、人間は等しく、自分以上に優先するものはない。
だが、どうにもならない事もある。
私はここ数か月、フラッシュバックが続いている。
ある晩に父親が母親を犯し、翌晩から幾度となく母親と私の寝所に入らせないようにしたこと。
襖の前で叫ぶ私に、母親が何も言わなかったこと。
犯された晩、私が耳を塞いで唸り何も聞こえないようにして、子供が起きている中で何も言わなかったこと。
そこから、芋ずる式に蘇る周囲からの言葉や暴力。
男に生まれさえすれば、と祖母は言った。
16歳になり孫さえを孕めば、あとは好きにしろ、と母親は言った。
どういうつもりだ!、と風呂上りの高校3年生の半裸の私を追い回した父親。
など。
私や妹は、レイプで生まれた子供であり、あらゆる意味で母親にとって否定的な存在だったろう。
しかし、私もまた、ひとりの人間である。
だから、私はせめてもと分籍した。
彼らもそれぞれが己であっただけである。
先述した通り、私は人を傷つけるだろう、傷つけられればまともな感覚を失うだろう、という半ば被害妄想でありながら拭えない感覚があり、それに向き合うのは私自身以外にはないのである。
そんなことを思った今日であった。
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