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ディスプレイ越しの主体
映画「サタデーナイトフィーバー」を15年ぶりに見て、当時は色々と見えていなかったことに気づいた田森です。(スタジオジブリの一番好きな作品も、大人になって「魔女の宅急便」に変わりました)
さて、みんなのギャラリーでは、只今アーティストユニット「three」の作品を展示中です。(6月11日まで)
今展でフォーカスする「ディスプレイ」シリーズ作品は、threeの作品シリーズの中でも比較的最近になり登場したシリーズで、これまでの作品との違いは、実機を使っているという点にあります。テレビ、PC、Mac、iPhoneなど様々なディスプレイ画面いっぱいに、沢山のフィギュアが詰まっているといった作りになっています。一見するとディスプレイが壁に掛かっている状態だからか、分かっていても、立体的なフィギュアが、画像としてディスプレイに表示されているように見える瞬間があります。
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元々、threeの作品には実機を使わない壁掛けタイプというか、フィギュア素材による平面的な形状の作品がありますが、例えば下に掲載した作品のタイトル「77V型 19.9kg」からも分かるとおり、作品の形状はデジタルデバイスの規格サイズと同一になっています。ですので、フィギュア化したキャラクターたちがどの世界から来たのか、という視点において、threeは活動初期の頃より一貫してキャラクターたちが画面の中の生き物であるという性質を示唆していたのでした。
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実機を使う前のこれまでの作品が、画面の中からこっちの(我々の)世界に出てきた状態であるのに対して、ディスプレイシリーズの作品が表している状態は、こっちの世界に出てくる前の状態だということなのです。そう考えますと、実機に詰まった立体のフィギュアが、画面に表示された2次元の画像のように錯覚するのも分かる気がします。
実機を使う前のこれまでの作品が、あっち側(ディスプレイの中)からこっち側に出てきた状態で、キャラクターたちがあっち側にいる状態はゲームやアニメが再生されている(プレイ)状態だとすると、ここで気になってくるのは、ディスプレイ機器とは一体なんなのかということです。
ちょっと分かりにくい言い方になりますが、こっち側とあっち側という領域がディスプレイを隔ててどうもあるらしく、両側を行き来することができるらしい。ただ、あっち側にいるものを、こっち側に持ってきたとき、あっち側のものはこっち側では固まってしまい、あっち側にいたときとは様子が変わってしまう。あっち側のものがあっち側で本来どうあるのかは、こっち側からディスプレイ越しに見ることはできても、こっち側の主体も、あっち側の主体も、どちらもそのまま持っていくことはできないらしい。ああなんだかもどかしい。あっちとこっちを繋ぐ、唯一の窓、ディスプレイ。
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あっちこっちを連呼しすぎて意味不明になっている気がしますが、2次元と3次元の世界の存在と、その非同一性について言いたいのだと思いますたぶん私は。
今、非同一性と書きましたが、現代を生きる私たちは、往々にして主体を2次元、というかオンラインに乗っけるようになりました。SNSやWeb会議といったものを通じ、その量と時間も増える一方です。あっち側に乗っけた自分を確認するこっち側の自分は、手段としてやはりディスプレイを通さねばあっち側の自分が見えず、ということで言えば両者は切り離されているとも言えそうですが、ではあっち側の自分とこっち側の自分は、同一でしょうか、非同一でしょうか?
一体何言ってんのって感じですが、誰かと対面で会っている最中、自分がスマホ越しにSNSをチェックしてたりなんかすると、目の前の人の話をつい聞き逃しちゃったりして、自分自身があっちこっち移行している経験はないでしょうか。こっち側でステイしなければならないようなときも、あっち側の自分(例えば自分の投稿や人の投稿への反応)のことが気になったりして。SNSアカウントは複数所有。匿名だったり非匿名だったり。自分の行動がストーリーズになるのか、ストーリーズになるのが自分の行動なのか。自分の主体は今、どっち側にある??
じ、自問し過ぎると健康に良くなさそうなので、主体がオフラインとオンラインの間を移行できる状態を描いた例として、「攻殻機動隊」ですとか、その攻殻機動隊から影響を受けたとされる「マトリックス」なんかの世界観が挙げられると思うのですがいかがでしょうか。例を挙げても深いところまで突っ込んだ話を展開する力量がないのですが、いずれも個の主体がオンラインに取って代わられ、オフラインの身体をどう扱うかといったことが描写されていたように思います。
今更な感じかとは思いますが、あらすじを参照してみます。
時は21世紀、第3次核大戦とアジアが勝利した第4次非核大戦を経て、世界は「地球統一ブロック」となり、科学技術が飛躍的に高度化した日本が舞台。その中でマイクロマシン技術(作中ではマイクロマシニングと表記されている)を使用して脳の神経ネットに素子(デバイス)を直接接続する電脳化技術や、義手・義足にロボット技術を付加した発展系であるサイボーグ(義体化)技術が発展、普及した。結果、多くの人間が電脳によってインターネットに直接アクセスできる時代が到来した。生身の人間、電脳化した人間、サイボーグ、アンドロイドが混在する社会の中で、テロや暗殺、汚職などの犯罪を事前に察知してその被害を最小限に抑える内務省直属の攻性公安警察組織「公安9課」(通称「攻殻機動隊」)の活動を描いた物語。
トーマス・アンダーソンは、大手ソフトウェア会社のメタ・コーテックスに勤めるプログラマーである。しかし、トーマスにはあらゆるコンピュータ犯罪を起こす天才ハッカー「ネオ」という、もう1つの顔があった。平凡な日々を送っていたトーマスは、ここ最近、起きているのに夢を見ているような感覚に悩まされ「今生きているこの世界は、もしかしたら夢なのではないか」という、漠然とした違和感を抱いていたが、それを裏付ける確証も得られず毎日を過ごしていた。
「あなたが生きているこの世界は、コンピュータによって作られた仮想現実だ」と告げられ、このまま仮想現実で生きるか、現実の世界で目覚めるかの選択を迫られる。日常の違和感に悩まされていたトーマスは現実の世界で目覚めることを選択する。渡された赤いカプセルを飲み、心停止した瞬間、トーマスは自分が培養槽のようなカプセルの中に閉じ込められ、身動きもできない状態であることに気づく。トリニティたちの言ったことは真実で、現実の世界はコンピュータの反乱[11]によって人間社会が崩壊し、人間の大部分はコンピュータの動力源として培養されていた。
翻って、フィギュアというものの本来の主体が2次元の世界にあり、3次元の世界では人形という姿によって固着する他ないということは、私たちの主体と身体との関係性を取り巻く環境の、急速な変化について考えるにあたり、オンラインに主体を置く比重が増す今、比較対象として遠からずな存在という気がしなくもないな、ということを思うのでした。
この話は、アーティストとの対話の中でも登場した話でもありまして、近日インタビュー記事として公開したいと思います。
ということを言いつつ、でも私は現実にちゃんと存在しておりますよってことで、東京上野のみんなのギャラリーで、皆様のお越しをお待ち申し上げております!
NewChord_#1 - three "Displays"
5月25日(水)ー6月11日(土)
13:00-19:00
休廊:日曜日
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