ラーメンの隠し味
この店に来るのは初めてだった。元々ラーメン好きの西村は、偶然見つけた路地裏の看板を見て、そのまま店に入ってしまった。
注文してしばらくすると、期待通りに見た目も美味しそうな丼ぶりが運ばれてきた。早速食べてみる。スープも深い味付け、麺もしなやかでコシがある。チャーシューも好みの味だ。当たりだ。西村は満足して箸を進めた。
会計を済ませようとレジに向かうと、店員が言った。
「当店のスタンプカードはお持ちですか？」
「いいえ」
「無料ですが、お作りになられますか？」
「はい」
西村が答えると、店員が説明した。
「５回スタンプが貯まると、トッピング１品無料。１０回貯まると、特別な隠し味を選べます」
スタンプ貯めて隠し味ってのは珍しいな、と思い、西村が尋ねた。
「どんな隠し味なんですか？」
「それは１０回貯めてからのお楽しみです。期待していただいた結構ですよ」
意味ありげな笑みを浮かべて、若い男性店員が言った。
「また来ます」
すっかりこの店のファンになった西村は、そう言って店を出た。
それから４回通い、トッピング無料の権利を得た西村は、さらに５回通って、いよいよ隠し味の権利を得た。注文を取りに来た、初回スタンプカードを作成してくれた男性店員に、意気揚々と尋ねた。
「やっと隠し味にたどり着きました。今までのメニュー、全部美味しかったので、隠し味も楽しみです」
すると、店員は、少し小さな声になって言った。
「ありがとうございます。隠し味はこちらの中からお選びください」
出されたメニュー表を見て、西村は、首をひねった。どうもイメージしてた隠し味とは違うようだ。
「ええと、これが、その隠し味メニューですか？」
「はい。一応、男性向けメニューですが」
店員はそう言うが、そこに書かれていたのは、予想外の言葉だった。
『イケメン、スタイリッシュ、人気者、金持ち…』
西村は試しに聞いてみた。
「これって、そういう名前の味…なんですか？」
変わったネーミングセンスだな、と思い尋ねた。
「いえ、お召し上がりいただければわかりますが、あなたに訪れる幸運を隠し味に仕込んでいます」
もう、意味不明だった。美味しいラーメン屋だから、こんな小噺みたいな遊びはいらないのに、と思いながら、でもきっと味も良いからいいか、とあまり考えずに、｢イケメンでお願いします」と言っていた。
運ばれた丼ぶり。見た目は、あまり違いない。早速食べてみる。いつもにも増して美味しい。きっと、本当に良い隠し味を仕込んでいるのだろう。結局、美味しければ良いのだ。西村はスープまで飲み干すと、レジに向かった。
「７８０円になります」
店員はそう言うと、また小さな声で言った。
「隠し味の効果が出るのは、今夜からです」
西村は、この店なりのサービス精神を傷つけないように、笑顔で言った。「イケメン効果が消えないうちに、また来ますよ」
その夜、風呂上がりに鏡を見て、思わず声を上げた。
「まさか…」
どうしてだ。こんなことがあるだろうか。一人自問していた。元の西村に面影が似ているのに、３割ほど、いやそれ以上にハンサムになっていた。「俺が、イケメン？」
西村は未だかつて、男性からも女性からも言われたことのない単語に、落ち着かない心持ちだった。
翌朝、顔を洗おうと寝ぼけた頭で鏡を見る。また驚いた。昨日よりも、さらに顔が進化しているようだ。自分で言うのもなんだが、元の面影は維持しながら、さらにいい男になっていた。
「もうね、なんだかわからないけど、これでいいや」
西村は落ち着かなさと、嬉しさと、喜びと、怖さを同居させた心情で独り言を鏡に向かって言っていた。
「いや、もしかして、こっちが本物の俺だ」
適応というのは怖いものだ。朝は違和感のあった自分の顔も、夕方には慣れ、ショッピングモールのトイレの鏡を見て、西村はそんなことを思い始めていた。明日はいよいよ会社に出る。周りの反応が心配だが、これが自分の顔なのだから、何も恐れることはない。密かに憧れている先輩の美奈さんの反応だけが気がかりだが、イケメンになって嫌がる女性はいないはず、という持ち前のシンプル思考で乗り切ることにした。
「よし！」
鏡の自分の両頬をパチンと両手で叩くと、西村は身だしなみをチェックして、意気揚々と会社に向かった。電車の中。気のせいか、女性達が自分をチラチラ見ている気がする。いや、以前なら痴漢と思われているのでは、という意識で女性の視線を怖がっていたが、今の西村は、同じ程度の視線を好意的に捉えてしまっただけなのかもしれない。
会社に入る。すれ違う人は、挨拶するが、これといった反応はない。机に向かって座り、パソコンを立ち上げる。斜め向かいの美奈さんが出社した。「おはよう！」
相変わらず、爽やかで自然な声だった。
「おはようございます！」
元気よく西村が答える。
チラリとこちらを見た美奈さんの表情に変化はない。
何でだろう？ そんな疑問を持ちながら、その日の仕事を開始した。
結局、その日会社では誰も西村の変貌を遂げた顔について言及しなかった。まさかと思って会社のトイレで自分の顔を見るが、やはりそこにはグレードアップしたイケメンの自分がいた。
翌日も、誰も反応してくれなかった。いよいよ不思議に思った西村は、残業せず早めに仕事を切り上げると、あのラーメン屋に向かった。
「いらっしゃいませ！」
元気よくあの店員が声をかけた。テーブルにつき、注文を伝えると、すぐに切り出した。
「すみません。例の隠し味の件なんですが…」
男性店員は、また声をひそめて言った。
「いかがでした？ ご満足いただけました？」
笑顔で聞いてきた。
「それが、間違いなく効果はあったのですが、会社とか他の人からの反応がないのが不思議で…」
すると、店員は特に驚くこともなく、話し始めた。
「お客さん、そりゃそうですよ。お客さんだけに見える変化なんですから。『隠し味』ってそういうもんじゃないですか。ラーメンの隠し味はお客さんだけが味わえるんです。食べてない他の方にはわからないし、伝わらないんです。イケメン効果も、お客さんだけが見えますけど、他の方には見えないんです。じゃないと、うちも商売上がったりですよ。うちに１０回通っていただいたお客さんだけへの特別サービスなんですから」
その日のラーメンも美味しかった。この店、いろんな意味ですごいな、と思いながら、西村は会計を済ませると、暗い路地に出て白い息を吐いた。そして、今度美奈さんを誘って同じ隠し味を食べてもらえたらな、と少し考えて首を振った。いや、結局人の見た目なんて、調味料で見えたり見えなかったりする程度じゃないか。結局、感じ方の一部だ。本質は、そこじゃない。そんな事を思いながら、家路についた。