見出し画像

映画『キャラクター』 勝手に脚本直してみた。やっぱり山城はやばいやつだった。

※注意※ネタバレ込みです

こんばんわ。

先日映画『キャラクター』を観た。ストーリーはもちろん何より両主役の演技がすごい。

しかし何か物足りなさを感じたのは否めない。特に終盤に向けて両主役の大立ち回りを期待していた。しかし、事件を締めくくる為のストーリー回収にバタバタし、二人の心境を掴めるシーンが飛ばされていた様に感じる。結局二人のことがあまりわからないまま、意味深なメッセージが込められたラストシーンで終わってしまった。

今回はそんな物足りなさを自ら満たすべく、映画『キャラクター』の脚本を勝手に自分好みに直してみようと思います!

完全なる自己満ですが、もしよければ最後まで読んで、皆さんのご意見やアイディアなどありましたらコメントください!

両角と山城の歪んだ共依存関係をもっと色濃く見せたい

本作の見所はなんといっても殺人鬼である両角とその両角をモチーフとした殺人鬼を描く山城の関係性だ。

しかし!そこの描写の厚みが足りない!

ラストシーンで山城が覚醒し、両角さながらの狂気の目で両角を滅多刺しにするシーンで本作は山城の中に眠る殺人鬼を彷彿させた。しかし、それは信頼する警官を殺され、妊娠している愛する嫁の足を刺されている手前、憎しみがあるのは当然とも捉えれる。憎悪と狂気が混ざってしまい、それだけでは山城の眠る狂気が伝わりづらいなと思った。

山城の人格には確実に狂気が存在する。なぜなら『34(サンジュウシ)』誕生のきっかけとなる最初の四人家族惨殺事件に出くわした山城は、両角の横顔を見ただけでダガーというキャラクターを生み出し、彼に漫画内でありとあらゆる殺人を繰り返させる。『34』のヒット具合を見るとそれはもう惨たらしい殺人描写なのだろう。

山城は冒頭で師匠に「山城はいいやつすぎてリアルな殺人が描けない」と言われるほど善良な市民なのだ。その彼が殺人現場と両角の横顔だけでそこまで覚醒しきれるだろうか?

山城は作中でこう語る「両角が俺に入ってきて、俺が両角に入って」と。

そうなのであればもっと入ってくる描写が必要だ。もしくは継続的に入り続ける必要がある。

作品のままだと、
山城はきっかけだけが必要で、事件の目撃により一瞬のうちに独自の「覚醒」をし、両角すら魅了する殺人を描き続けられるようになったという方が納得できる。その場合、両角が魅了されるほどの漫画を描き続けられる山城の方が両角より余裕で狂っていることになる。

本作では両角は終始山城に対して「俺のおかげ」的な態度を取り続け、山城は受け身である。両角と山城の関係値が終始曖昧かと感じた。

繋がりが感じられないまま最後まで間延びして、結局決裂を迎えても観ている側は「そりゃそうだ」となる始末だ。

ということでその関係性をしっかりと視聴者と一緒に「生み⇨育て⇨葬る」ストーリーにするために、以下のキーワードに沿って勝手に脚本編集をしていこうと思う。

編集場面と条件

<編集場面>
① 山城と両角の初めての対面(冒頭シーン)

② 山城と両角の2度目の対面

③山城が連載をやめると決意する場面

それではやっていこう。

① 山城と両角の初対面

オリジナル:窓の外で帰ろうとする両角の横顔を目視するだけ。

殺人現場を目の当たりにして、しかもその犯人であろう男が血塗れでこっちを見て微笑んでいる。そして両角は山城に話しかける。

「四人家族っていいですよねぇ…」

殺人を目の当たりにしても即座に逃げたり、吐いたりするわけでもなく、死体から目を見つめ、腰を抜かしながらもある意味魅了されていた山城の本質を両角は見抜き、共感を感じたかのように微笑む。

山城も確かに両角の言葉を聞き、両角と目が合う。両角が無残に死に絶えている四人家族を殺した張本人だってことは明白だ。なのに何かに固定されているかの様に両角から目線をずらすことが出来ない。体も動かない。むしろ動きたがらない。この時に山城の中の何かが覚醒していく。

それが山城が持つ彼独自の狂気だ。両角がその場を離れた後も、山城はこの瞬間を脳裏にスケッチするかの様にひたすらその場から動こうとしなかった。この時目覚めた狂気が後にダガーとして具現化されるのだ。

この酷い死体や、そこら中に飛び散った血や臓物ではなく、両角という存在がこの景色を作り出したことに刺激される山城。そしてその覚醒を原動力に彼はペンを握り、『34』を完成させるのだ。

こうすることで、二人の繋がりのきっかけと山城の覚醒が事件現場よりも両角の存在に起因していることを表現できるかと考える。

② 山城と両角の2度目の対面

オリジナル:飲み屋で両角が山城を訪ねてくる。山城怯える。両角は作品のヒントを山城へ託す。

①で山城は両角との出会いで初めての「覚醒」を経験し、『34』を描きあげる。山城は両角をモチーフとしたダガーというキャラクターを創作し、ダガーにありとあらゆる殺人を繰り返させた。ダガーという器にどんどんと自分の狂気を詰め込んでいったのである。

猟奇的なストーリ描写が売りの『34』は大ヒットを遂げ、山城は漫画家としてついに大成する。(ここまではオリジナルと同じ)。

しかし連載開始後数年経ったあるタイミングで、山城は編集長に呼び出されこう告げられる。「あのさぁ。ちょっと殺人シーンが進化していない感じがするんだよね。ダガーも成長していく感じにできないかな。売り上げもある意味もうひとつ壁を破って欲しいし。」

あの時の様なインスピレーションが降りてくることなどあれ以降一度もなかった。そんな山城はこの編集長の言葉に非常に焦りを感じた。

常々山城は『34』は自分の作品ではないと心のどこかで感じていた。あの日、ほんの少しの間だけでも両角と繋がった時間が自分の何かを覚醒させたことは山城本人も大いに自覚していた。

一度は漫画家を諦めざるを得なくなった才能のない自分が本来の姿であって、その時の自分に戻ってしまう事をすごく恐れた。

調子の上がらない山城は、もう『34』の連載すらやめようと考える。しかしある日消費しきってしまったあの事件の感覚を遡り、手繰り寄せるかの様に、山城は無意識に両角と初めて会った家を訪れる。そこには両角が居た。

山城は即座にその人影が両角だということに気づく。両角が未解決事件の犯人だということを分かっているにも関わらず近寄っていく。そしたら両角は山城に気づきこう言う「34読んでます」「ダガーって僕に似てますよね」両角が淡々と話す。山城はあの日見れなかった両角の細部をまじまじと観察する。服と服の隙間から少しだけ覗く両角の肌は自傷とも思われる傷が無数にある。

両角はその後無邪気に『34』の好きなところについて一人で語り始める。そして最後に両角が「もしよかったら僕一緒にストーリー考えましょうか?」と持ちかけるが、山城は「ダガーは君じゃない」と断る。

両角は少し驚いた顔をして、うつむきその場を去ろうとする。そして振り返りにこりと山城に微笑む。それが初めて両角と会ったあの日と重なり、また山城の中に何かが弾ける。一人残された山城は小刻みに震える手に握られたスマートフォンを見つめ通報を考えるが、やめた。そして帰宅し漫画を描き始め、見事『34』は復活した。しかし、それを機に連載内容を模倣した殺人を両角は次々と犯していく。

これが2個目の編集点だ。
ダガー=両角だとオリジナル版では捉えてしまうが、必ずしもそうじゃない。出くわした四人家族殺人事件を模倣したストーリー以外の『34』で描かれた殺人は全て山城の創作だ。それを描ける山城の中には間違いなく狂気が存在している。

1度目の対面で山城が得た覚醒は作品で昇華されてしまい、山城は勢いを失う。悩んでいたところで2度目の対面で充電チャンスが来ると言うわけだ。両角の存在をきっかけに目覚める山城の狂気は漫画を描き続けるために必要不可欠になる。ここに山城の両角への依存が完成する。

一方、カルト集団の生き残りである両角は戸籍すら持って居ない。実質この世に存在しない男なのだ。そんな彼はダガーが自分に酷似していることに気づき、世の中がダガーを認めることで、ついに存在の証明を手に入れることが出来た。そんな彼はどんどんとダガーと繋がっていき、ついにはダガーになるのだ。それが彼の覚醒なのである。

両角により覚醒した山城の作品により、両角が覚醒し、ついにここに共依存が完成する。

③山城が連載をやめると決意する場面

オリジナル:両角が病院に来て、『34』は共作だと言い張った時。

山城は模倣殺人の存在を知る。犯人が両角であることも確信している。間違っていることとわかっていながらもペンが踊る様に進む。連載をやめようとはしない。両角による模倣殺人により彼は覚醒を継続する事が出来ていたのだ。

両角との最初の対面で両角が言っていた「四人家族っていいですよね」※①は山城にとってなぜかしっくりきていた。それを連載当初からそのまま『34』のストーリーに活かしていた。四人家族を殺す時はダムが崩壊したかの様にアイディア溢れ出て来る。彼はそれを両角の一言が引き起こした覚醒の一部と考えていたが、そうではなかったと気づくことが起きた。

山城妻が双子を妊娠したことを知らされた。彼は無性に溢れ出て来る涙を止められずにひたすら心から喜んだ。まるで何かから救われたかの様に。

山城夫妻は山城実家に赴き、妊娠の報告をした。家族のみんなは心から喜んでくれた。山城も素直にこれまで支えてきてくれたことを家族に感謝をした。

山城家族は作中で語られる通り、山城と山城父は血が繋がっているが、母と妹は血が繋がっていない。山城の実母は早くに亡くなった様だ。父の再婚後に今の家族構成になるのだが、山城は作中でもどうやらそれをよく思っていない。不完全な四人家族にコンプレックスを感じていて、それが漫画で四人家族を殺すというストーリーに姿を変えたのだろう。

しかし、妻の双子妊娠により山城は自分の家族を築く事が出来ると悟る。その時、山城の中で四人家族というのは「壊す」対象から「守る」対象へ変わる。

そして四人家族を殺し続ける『34』の作者として矛盾を感じ始める。彼は根本的に変わり、もう前の様な残酷な描写で四人家族を殺せないと悟った。彼の狂気の主成分は四人家族への渇きであり、それがもう満たされたからだ。山城は連載を辞めることを決意し、メディアで発表する。

しかし、それを両角は許さない。なぜならダガーがいなくなると自分の存在証明がなくなるからだ。山城に『34』連載継続の説得を試みるが、山城はこれを拒否。アイデンティティークライシスを起こす両角はついに自分をダガーと思い込む様になる。そこで彼は独自の犯行に移る。それで両角のダガー化は完全となる。山城は奇しくもダガーというキャラクターを現実世界に誕生させてしまうのである。

そして両角は山城の双子のことを知り、山城さえも狙う様になる。そしてオリジナルのエンディングに繋がっていく。

まとめ

①で山城と両角の接触によるその後の展開に意味を与え、②強い依存関係を完成させ、③で山城の離脱により生まれるねじれに導く。

最後の山城が両角を滅多刺しにする描写によりリアリティーが増すかと思う。そして二人が重なる漫画とはあべこべの描写により意味をもたらすのではないだろうか。

山城と両角の間にはオリジナルで見て取れるよりもずっと強く暗い依存関係がある。それをこうすれば表現できるかと勝手に考えてみた。

あくまでも個人的趣味であり、勝手な創作です笑。

ここまで読んでくれた方々、長文にも関わらずありがとうございます。嬉しいです。感想や、ご意見、別の案などあれば是非下さい!いろんな意見が聞きたいです!

-YOHUKASHI BLOGについて-
1989年東京生まれ。
アメリカはミシガン州にてマルチメディアのマーケティングと商品企画をしながら、
音楽制作(Youtube)/イラスト(Instagram)/ブログ等をやっています。
アメリカをふらふらしてますが、どこにいても同じようなこと考えてるんですよね。
そんなこんなで場所に依存しない自分を大切にしています。
あと関心あることには素直になったほうが良い。時間が豊かに埋まるから。

主なブログ内容:
・映画感想文/考察
・実体験に基づくエピソード
・書籍/音楽レビュー などなど

SNSリンク
Youtube:https://www.youtube.com/channel/UCrDsU-Y7on0AuJKxxLkF6GA

Instagram:https://www.instagram.com/yohukashi_records/

-その他おすすめ記事-


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?