楽譜を床に置く人が嫌い。


音を選ぶということ


レッスンをしていると「歌う」とはなんですか?と聞かれることがあります。この質問は非常に漠然としていて、ぼくとしても答えに困るのが正直な心情。
そもそも歌、つまりは歌心とはなんなのか。

楽器を演奏するということは当たり前ですが楽曲を演奏するということとほぼ同義です。
基礎練習だけ吹く毎日が楽しくて楽しくて仕方ないという方もこの広い世界にはいらっしゃるのかもしれませんが、ぼくは未だそのような方を存じ上げません。

いまあなたが取り組んでいたり愛聴している楽曲にはすべて作り手、つまりは作曲家がいます。
一曲一曲の描き出す情景はさまざまですが、作曲家自身を投影したものであったり…愛した人をイメージしたものであったり、はたまたその時代の社会情勢を皮肉ったものであったり。
曲ひとつひとつに母がいるわけです。

ぼくは男性として生まれた以上一生涯母になることはできません。
産みの苦しみは産んでみないとわからないとよく言われていますが、子宮をもたない男性にもその痛みを想像することだけならできます。
そして、その痛みと苦しみを"知ろうとすること"自体が尊いことなんだとぼくは思うのです。

曲においての母にも同じことがいえると思います。どのような時代を生きた母が、どのような状況下におかれて生み出したのかを知識・情報として知ることは再現芸術においてとても重要なこと。
さらには文献等から仕入れた事実の無機質な文字情報だけではなく、実際にそこに自分がおかれたとしたらどう感じるかを投影する。流行りのVRじゃないけど、リアリティをどれだけ感じられるか。

また、社会のルールや法律が楽曲における音楽理論なのかなと思ったりします。その枠組みを超えないように育てながら、強く・たくましく・やさしさをもって…などなど、その理想は母親によって変わってくるかと思いますが、
なにかしらこういう風に育ってほしいと祈られながら子、つまりは曲が成長していくものなんだと考えます。


音を紡ぐ母がどのような思いでその一音を書いたのか。


例えばドから始まる曲…そもそもなんでレじゃないのか。
例えばテーマが戻ってきたとき冒頭と違うところがある曲…その違いをつけた真意はなんなのか。
例えばアウフタクトが1音だけある曲…どうして休符もセットにして1小節増やすことはしなかったのか。
例えばフェルマータで終わる曲…なんでただの伸ばしにせず、この記号を用いたのか。

すべてに思い入れと信念がある前提で、残らずそれらを汲みとろうとし
ひとつひとつの音や記号の存在理由や、その状態の美しさに細やかに感動する心があれば
自ずと「歌心」というものに近づけてくると思います。


あ、そうだ。楽譜を平気で床に置く人が嫌いです。


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