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「良い記事とは何か?」を測る指標

「良い記事とは何か?」

その定義らしきものは解釈次第でいくらでも広げることができるけど、雑誌からWebメディアに移って、これまでとは違う視点で記事を作るようになったこともあり、書くことで改めて考えてみたい。

そもそも、「良い記事とは何か?」をメディアが自問するのは、多くのメディアがビジネスであることに拠る。

メディアビジネスには、課金収入と広告収入とがある。いずれのモデルであろうと、読んでくれる人がいてはじめてメディアは成り立つ。

だから、「良い記事」かどうかの判断は読者によってなされるという前提がある。ただ当然ながら読者は「良い記事とは何か?」なんて考えることはなく、読んで「(なんとなく)良い記事だった」と思うだけでしかない。

それでも「良い記事」かどうかは読者の判断に委ねられるとすれば、メディアがまず考えるべきは、それを測る指標なのかなと思う。

たとえば、その指標をビジネスモデルに当てはめてみると、課金モデルはシンプルに捉えやすい。多くの場合、記事の対価として課金されるから、お金を払ってでも読みたい記事かどうかが「良い記事」の指標と言える。

一方の広告モデルであれば、PVを追求することがメディアにとっての生命線になるわけだけど、「PVが多い記事=良い記事」にはなりえない。それは、PVは結局のところ記事のリンクのクリック数だということがある。

以前はPVやUUが重視されていたけど、SNSが浸透して以降は、多くのメディアでシェア数を重視するようになった。これは記事の質を問う指標として、たしかにわかりやすい。

そこには、良い記事に出合えば、読者は完読して誰かに伝えたくなるという前提があり、「シェアされる記事=良い記事」ということになる。

ただ若干物足りないというか、その等式の蓋然性はどうなのかなという気もする。それに、記事の中身を読まず、タイトルだけを見てシェアする人も一定数いるというデータもあって、そうなれば「良い記事」の指標としてシェア数を用いる意味は弱くなる。

だからこそ、「シェアされる」ということの数だけを見るのではなく、もう一歩踏み込んだ「どうシェアされるか」が、「良い記事」の指標としては大事なのかなと思う。

「良い記事」に出合えば、誰かに伝えたい、共有したいと思うことを前提にすれば、その思いが強いほど、人は単なるシェア(たとえばリツイート)ではなく、その良さを「表現したい」という欲求に駆られる。

「どう良いのか」について、記事中の引用だったり自分なりの言葉だったりと、記事がきちんと届くように「思い」を乗せてシェアする。そうして記事は、誰かの「思い」とともに伝播していく。

その「思いを乗せた伝播の総量」が、「良い記事」としての指標になる。

記事の作り手は「どう伝えるか」ばかりを考えがちだけど、その奥行きにある「どう伝わっていくか」まで設計ができるといい。もちろん、シェアは自然発生的に生まれるものであって、結果論なのだけど。

そして何より、指標はあくまで指標でしかない。「どうシェアされるか」を指標にしたとして、そこに「良い記事」をつくるヒントはあっても答えはない。

ならば、まずはつくり手自身が「良い記事」だと思えるような記事をつくることから始まる。「良い記事」を日々追求して試行錯誤を繰り返すことで、シェアが生まれ、「思いを乗せた伝播の総量」は大きくなっていく。

この「良い記事とは何か?」を問うことは、延いては「良いメディアとは何か?」を問うものでもある。メディアは基本的に記事の集積によってつくられるからこそ、一つ一つの記事に、メディアとしての真価が問われている。

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