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【サイケデリック学・意識哲学探究記】12070-12078:2024年2月8日(木)

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タイトル一覧

12070. 今朝方の夢

12071. 今朝方の夢の続き

12072. 瑜伽行唯識学派の特徴/ヨーガの本義を忘れた現代のヨーガ

12073. 解脱と悟りへの道としてのサイケデリクスの活用/ヨーガ業界への関与

12074. 法相宗への関心の高まり

12075. 興福寺と薬師寺への訪問の思い

12076. マントラ瞑想と止観瞑想の実践

12077. リアルと幻想を生き続けてきた人類/般若獲得の3つの道/基と道昭

12078. 集中力の高まりを実感して

12070. 今朝方の夢

時刻は午前4時を迎えようとしている。今の気温はマイナス3度と低いが、部屋の中は暖房のおかげで暖かく快適に過ごすことができている。どうやら今日は雪が降るらしい。ここ最近はずっと比較的暖かいと感じる日々が続いていたので、今日の午後にジムに行く際には寒さを久しぶりに感じられるかもしれない。オランダでの生活も8年が経とうとしているが、この8年間の中では着実に温暖化の影響を感じる。今日は確かに気温は低いが、明日からはまた氷点下の世界を脱出した形で日々が続く。

今朝方の夢についていつものように振り返っておきたい。今朝方は夢の中で、一昔前にJリーグで活躍し、今はもうタレント的な形で活躍しているある方がコーチを務めるサッカークラブに所属していた。サッカークラブと言うよりもそれは学校の部活で、その方は外部からコーチとして来ていた。私はその方から良い意味でも悪い意味でも目をつけられていた。良い意味に関して言えば、自分のサッカーの能力に対して高く評価してもらっていたのである。一方、悪い意味では、私は毎回と言っていいほどに遅刻して部活にやって来たので、その点で目をつけられていた。その日の部活も自分だけが遅刻して練習に参加し、その方に声をかけられ、なぜ遅く来たのかの理由を尋ねられた。私は、「病院で検査を受けていました」と述べた。それは嘘ではなく、実際に病院に行っていたが、病院での検査が終わったのはとっくの昔だったので、部活に遅刻する理由には本来なり得なかった。その方は一応自分の理由に納得してくれたようだったが、表情は渋いままだった。不思議なことに、その方は遅刻するなとは一言も言わなかったことである。いつもそれを言わない。きっと自分を信じてくれているからなのだろうなと思ったので、次回から遅刻をしないようにしようと思った。しかし実際のところ私は、練習の前に別の場所で1人自主練をしていて、それが遅刻の原因だった。部活に早く来てしまうと、どうしてもメンバーたちと雑談をしてしまうため、それを避けるために別の場所で隠れて自主練をしていたのである。1人であれば練習は捗り、喋る相手もいないので黙々と自分が取り組みたい練習に取り組めると考えていたのである。それは隠れた自主練でもあったので、コーチのその方にそれについて話すわけにもいかなかった。そのような場面があった。

それ以外にも、大学時代の同級生で公認会計士になった友人と話をしていた場面がある。場所は見慣れないビルの中で、その食堂で彼が生卵を割って器に入れている姿を目にし、彼に声を掛けたのであった。私も久しぶりに生卵かけ納豆ご飯を食べたいと思い、彼に話しかけながら自分も生卵を割って器に入れた。そこで彼とは今現在どのようなクライアントと仕事をしているのかを尋ねた。話せる範囲で仕事内容について教えてもらうと、あるベンチャー企業が上場し、株価が大化けして跳ね上がって驚いたという話を聞いた。その企業の名前は初耳で、その会社は彼のクライアントだったのでインサイダー取引を避けるために彼は投資できなかったが、もし自分のクライアントでなければ必ず投資をしていたと笑いながら述べていた。そのような夢を見ていた。

前者の夢はどこか自分らしさがある。自分が取り組みたいと思うものに関しては、誰にも邪魔をされないように1人黙々と取り組むことはこれまでと今の自分を表しているように思う。夢の中でもあったように、仮にそれが他者の誤解を生むとしても、自分は誰の目にも止まらないところで1人黙々と学びを深めたり、実践を継続していくことを本分にしているように思う。そんな自己の側面を反映した夢だった。フローニンゲン:2024/2/8(木)04:07

12071. 今朝方の夢の続き

つい先ほど今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるのでそれについても振り返っておきたい。夢は常に自分の内面世界の奥深くを映し出していて、それを参考にしてもっと内面探求を進めていきたい。自己の内面を理解することが世界を理解することなのだ。自己の内面世界が外側に投影された形で自分の世界が形作り出される。それは唯識の教えでもある。外に映し出されたものから自分を理解する道と、自分の内面から世界を理解する道。その双方を大切にする。

夢の中で私は、見慣れない建物の中の社員食堂にいた。そこでアメリカ人の中年男性に食べ物をシェアしていた、どうやら私は食堂で食べ物を購入したのではなく、建物の外で食べ物を購入していたようで、購入した全ての食べ物を1つのビニール袋の中に入れていた。最初からその男性と分けて食べることを考えていたらしいが、購入したのはどれも自分が普段食べないようなものばかりだった。大雑把に分類すると、購入したのはピザとスイーツ類だった。どれもアメリカ人が好みそうなものだというある種の偏見が自分の中にあることに気づき、その偏見に無自覚な形でそれらを購入したのかもしれないなと思った。その男性にいざ食べ物を分けようとしたら、後ろから小中学校時代の数人の友人たちがやって来て、食べ物をせがんできた。当初はそのアメリカ人の男性とだけシェアして食べようと思っていたので、自分の分が果たして残るのか気になったが、彼らにもシェアするのが賢明かと思い、彼らにも食べ物をシェアした。すると案の定、自分の取り分は減ってしまったが、かえってそこそこに腹を満たす形で午後の活動に取り組めるかと思って、それはそれで良かったのかもしれないと思った。そのような場面があった。

それ以外には、中学校の部活の1学年上の先輩と一緒にバレーをしていた場面があった。私たちはバスケ部だったが、どういうわけかその日はバレーを練習しようということになり、バレーを始めた。1学年下から先輩たちの練習に加わっているのは自分だけだったが、先輩たちは自分に優しく接してくれていたし、自分も物怖じを全くしない性格だったので、同学年の友人たちとの練習と変わらない形で先輩たちとバレーを楽しんでいた。しかしやはり私たちはバレーの初心者だったので、全然上手くなく、終始珍プレーが連発する形で笑いに包まれて時間を過ごしていた。すると、女子バレー部の先輩数人が私に声を掛けてきて、なんでバレーの練習なんかしているのと笑いながら尋ねてきた。私もその理由が聞きたいぐらいで、誰がバレーの練習をしようと言い出したのだろうかと思った。でもそれが誰でも関係なく、先輩も私も笑いを絶やさずに同じ時間を過ごしていることに喜びを見出していた。ただそれだけが重要で、それだけで十分であった。そのような夢を見ていた。

ここ最近は小中学校時代の先輩が夢に現れることが多くなっているように思う。先輩たちとの関係は良好だったと記憶しており、一連の夢が何を示唆しているのかをさらに考えていきたいと思う。前者の夢に関しては、人に何かをシェアをすることを良しとする自分の性格が現れた夢だった。自分の場合、食べ物をシェアすることに関しては、食い意地が張っているのか、幼少期においてはあまりシェアをすることを良しとしなかったが、知識やノウハウを含めた技術は出し惜しみを一切せずに他者にシェアするということを幼少期から行っていたように思う。その点は今の自分も全く同じであるように思えた。フローニンゲン:2024/2/8(木)04:21

12072. 瑜伽行唯識学派の特徴/ヨーガの本義を忘れた現代のヨーガ    

時刻は午前5時を迎えた。今日もここから本格的に朝の探究活動に入っていこうと思う。今日はまず最初に、インド哲学の全体像を掴む書籍の再読をする。昨夜からすでにそれに取りかかり始めていたのだが、その続きに取り掛かり、再読を終えたら唯識思想に関する書籍を旺盛に読み進めていく。どうやら今日の午後に早速、先日イギリスから注文した唯識思想の専門書が何冊か届くようなのでその受け取りをジムから帰ってくる際に行いたい。明日以降も先日注文した唯識の関連書が続々と届く予定である。

現在情熱を傾けて探究している大乗仏教の唯識派はそもそも、古代インドにおいて、瞑想実践を本義とするヨーガの実践に励む瑜伽師(ゆがし)たちが空の思想と自らの瞑想体験をベースにして生み出されたものである。空の思想という思想基盤の上に瞑想による直接体験から得られた経験データをもとにして哲学的・科学的に発展していったのが唯識思想なのである。それは単なる思想的な枠組みではなく、一人称的な経験データに立脚し、そのデータは多様な瑜伽師たちの議論と共同合意によって緻密に検証されていったという点で科学的な枠組みでもあるのだ。唯識思想はもちろん解脱と悟りの実現を希求するという目的を持っているという点において宗教的な枠組みであるが、それは哲学的かつ科学的な枠組みでもあるという三位一体の性質を忘れないようにしたい。自分が唯識思想に惹かれているのはこの三位一体のそれぞれの精緻さと三者の整合性・統合性の精緻さにある。

日本では単に「唯識」「唯識思想」「唯識派」などと呼ばれたりするが、厳密には「瑜伽行唯識学派」なのであって、その思想の根底にヨーガの実践があることを忘れてはならないように思う。ここで述べているヨーガとはもちろんのこと、現代のフィットネス的な要素に還元して歪められたヨーガではないことは十分に理解しておく必要あるかと思う。瑜伽行唯識学派の瑜伽師たちが行っていたのは、現代のような身体を絶え間なく動かしていくようなヨーガではなく、兎にも角にも瞑想をしていたのである。それが本来のヨーガの姿であった。現代のフィットネス的なヨーガはあくまでも瞑想への準備のためのものなのであって、瑜伽行唯識学派の時代においてはおそらく身体的な側面は呼吸を整えるぐらいかムドラーを結ぶぐらいしかなかったのではないかと思う。この呼吸とムドラーを組むということがハタ・ヨーガの根幹だったが、それも歪められてしまい、現代ではハタ・ヨーガにおいても様々なアーサナ(ポーズ)をスタジオやジムの中で行われているような状況である。ヨーガの本分に立ち返り、自己を真に見つめて深層的な解放をもたらすための道を多くの人に共有したい。現代のヨーガは残念ながら、解脱や悟りには程遠く、苦からの解放に向かうことは愚か、深層的な苦の原因を温存したままに人々をより良い自分作りのための自己改革プロジェクトに駆り立てているようにしか思えない。そうした問題意識を持ちながら、ヨーガ業界に対しても働きかけをしていくことを瑜伽行唯識学派の探究を通じて行っていきたいものである。フローニンゲン:2024/2/8(木)05:24

12073. 解脱と悟りへの道としてのサイケデリクスの活用/ヨーガ業界への関与

本来、解脱と悟りへの道は多様にある。サイケデリクスの賢明な活用もその道の1つであって然るべきだ。サイケデリクスを活用して解脱や悟りへ至る道を邪道と批判する人たちは、結局空の思想を体現していないのだろう。本来道は多様に存在しており、それらは全て空なのである。重要なことは、解脱や悟りに至るプロセスでどのような行いを自他や社会に対して行うかであり、解脱や悟りが成就した後に自他や社会に対して何を行うかが重要なのではないだろうか。確かにサイケデリクスの活用は慎重を期さなければ、鈴木大拙氏が批判していたように、魔境に私たちを引き込む。しかし興味深いのは、晩年の大拙氏はとりわけ当時アメリカで流行っていたLSDに関心を示し、自らもなんとか摂取したいと思ってLSDを取り寄せようとしたが、かかりつけの医者から止められたというエピソードが残っている。大拙氏はおそらく、当時アメリカでLSDと座禅を組み合わせ、そこでの体験を悟りだと誤解するような風潮が広がっていたことにまずは警鐘を鳴らし、彼はおそらく空の体得者でもあったであろうから、晩年においては自らもLSDの体験を検証してみようとしたのかもしれない。いずれにせよ、本来空性に対する理解をある程度獲得し、中道を弁えておけば、サイケデリクスの活用を邪道と頭ごなしに見なすことはないはずであり、その活用も賢明かつ慎重なものになるのではないかと思う。解脱と悟りに至るための手段としてサイケデリクスを活用することに対して批判的な人も、それらを活用しようとする人もその点をきちんとわきまえておくことが重要かと思う。さもなければ不毛な批判合戦が続くだけである。

先ほど、自分がアメリカ西海岸でヨーガのインストラクターの資格を取得した意味について考えていた。本当に不思議な出会いである。運命はかくも数奇的に進行していくのだと思わずにはいられない。ヨーガのインストラクターの資格を取得したのはもう12年前になる。あれから丸12年経った。現在、インド大乗仏教の瑜伽行唯識学派の思想の探究とその実践に目覚めた自分は、ヨーガの本義に立ち返り、世界のヨーガ業界へ関与していきたいという思いを抱き始めている。ここから着実に唯識思想について理解を深めていき、唯識に関する読書会やレクチャーを積極的に行っていきたいと思う。これまで自分が学んできたことや実践してきたことを総動員する形で、唯識思想についてわかりやすく広く世の中の多くの人に共有し、少しでも多くの人が毎日を平穏で幸福に過ごしてもらいと願ってやまない。そんな思いで一杯であり、その願いを実現してくれるのが瑜伽行唯識学派の思想の探究とその実践なのだ。フローニンゲン:2024/2/8(木)06:02

12074. 法相宗への関心の高まり       

瑜伽行唯識学派への関心から、それに影響を受けて創始された日本の法相宗に関心を持ち始めている。自分の無知さを痛感するばかりだが、日本においては法相宗が最も古い仏教の宗派だったそうだ。法相宗は日本における最古の宗派で、奈良時代に中国からもたらされた。日本の仏教徒の数は浄土真宗が一番多いことは知っていたが、法相宗を信奉する人は今となっては随分と減ってしまっているようである。仏教徒の人口データを見たところ、法相宗と浄土真宗とでは人口に10倍以上の開きがある。なぜ法相宗が衰退していき、浄土真宗が人気を得ていったのかは日本の歴史と照らし合わせて学んでいきたいところである。それ以上に、まずは法相宗の思想についてより深く理解したいと思う。日本で人気のある浄土真宗と浄土宗は出家を必要とせず、逆に法相宗は出家して修行が必要とする点が信奉者の数に与えている影響は間違いなく大きいだろう。また教えに関しても、唯識思想は難解であるとされていることからも、その思想を核とする法相宗の教えは他の宗派と比べて親しみにくいものなのかもしれない。また、悟りや解脱が生きている間に可能とする他の宗派と違って、法相宗では生きている間に出家修行を要求しながらも、悟りや解脱が完成するのは死んでからという点で厳しいものがあることもまた多くの人に訴求する魅力に欠けているのかもしれないと思う。しかし自分は、実践倫理的にも道徳的にも、悟りや解脱が死んでから初めて完成するという思想に共感する。そうした思想は、いつまでも完成しない悟りや解脱に向かって絶えず研鑽を積み、善行を積み重ねていこうとする動機付けになるのではないだろうか。日本の仏教に存在する様々な宗派については宗派ごとの特徴をまだほとんど理解していないが、今の自分が瑜伽行唯識学派に関心を寄せていることから、法相宗に焦点を当てて研究してみたいという思いが強くなっている。

次回の一時帰国では、法相宗にゆかりのある奈良の興福寺と薬師寺に行こうと思う。近くの宿に宿泊し、それらの寺院を巡りながら、奈良の街を満喫したい。どちらの寺院も世界文化遺産に登録されていながら、これまで一度も足を運んだことがなかった。とりわけ興福寺には国宝として木造の無著菩薩・世親菩薩立像があるそうで、瑜伽行唯識学派を開いた2人に会いにいくためにもぜひ興福寺に行ってその像を拝んできたい。フローニンゲン:2024/2/8(木)06:29

12075. 興福寺と薬師寺への訪問の思い       

つい今し方、突然停電となった。時刻はまだ午前6時半で、辺りは真っ暗闇に包まれているので、家全体が本当に真っ暗になって驚いた。唯一の明かりはパソコンから発せられるものだけだったので、先日訪れたRitualsでもらったアロマキャンドルに灯りを灯して過ごそうと思ったら、すぐさま電気が復興されて助かったと思った。この時間帯に停電することは、単に真っ暗闇に包まれる不便さだだけではなく、今日のように氷点下の日には暖房が効かなくなってしまうので非常に不便を被る。そのように考えてみると、本当に自分はテクノロジーの恩恵に依存する形で日々を過ごしているのだなと思わざるを得ない。そうした生き方を否定するわけではなく、むしろ先人たちが生み出し、今も無数の人たちの関与によって成り立っている種々のテクノロジーに感謝したのである。生活を支えるインフラは本当に重要だと実感した次第だ。

今法相宗について色々と調べていると、法相宗の総本山である奈良の興福寺は、加藤家の大元にある藤原氏の祖である藤原鎌足ゆかりの藤原氏の氏寺ということを知り、ますます足を運んでみたくなった。実は自分は奈良には一度しか足を運んだことがなく、その時はデロイト時代にフルマラソンの大会に出場するために訪れ、フルマラソンだけが目的だったので、観光は一切できず、今度の一時帰国の際に奈良に足を運ぶことになれば、事実上最初の訪問と述べてもいいかもしれない。瑜伽行唯識学派をきっかけにして、法相宗を通じて奈良と縁が持てたことを嬉しく思う。改めて興福寺について調べていると、無著と世親の木像があるだけではなく、無著に唯識思想を伝えたと言われる弥勒菩薩の木像もあると知り、瑜伽行唯識学派の偉大なる3賢人の木像を拝むためだけに一時帰国するぐらいの価値があると思った。今年の年末は2年振りに日本に一時帰国し、奈良の興福寺と薬師寺には必ず足を運び、近辺に宿泊してゆっくり過ごそうと思う。

興福寺から薬師寺に目を向けてみると、そこにはインドから中国に唯識思想を持ち帰った三蔵法師こと玄奘の遺骨が収められている玄奘塔というものがあるらしく、それはぜひ拝んで来なければならないかと思う。自分の心も少しずつ着実に成熟し始めているのか、弥勒菩薩の立像、無著と世親の立像を見て、本当に美しいと見入ってしまう。それらの立像をネット上の写真を通して見ているだけで恍惚感を感じるのだから、実物を見たらさぞかし感動するだろう。今現在、家にはシヴァ神の掌サイズの置物があるが、弥勒、無著、世親に関しても、掌サイズの置き物を探してみたいと思う。フローニンゲン:2024/2/8(木)07:11

12076. マントラ瞑想と止観瞑想の実践 

つい今し方朝の瞑想を終えた。ここ最近は瞑想実践に再び力を入れており、それは意識研究のためもあるし、その研究を集中力高く行うための状態を整える意味もある。瞑想は大きく分けると、止と観の2つに大別される。前者は、心の波を沈め、心を呼吸などの対象に一致させる方法である。後者は、前者の穏やかな心を持って、内面で生じる諸々の事柄に囚われることなく観察していく方法である。止と観の双方が重要であり、順番としてはまずは止の瞑想を行うことによって、心の状態を平穏にし、そこから内観的な瞑想に入っていくのが良いだろう。止の瞑想を行う際に自分が意識しているのは呼吸に注目し、呼吸をできるだけゆったりとしたものにしていくことである。しかし、呼吸に集中しようと思っても雑念が湧きがちなこともあるので、その時に有益なのがマントラを唱えることである。先ほどは、古典的にオーム(AUM)のマントラを唱えながら、その音の響きを全身で感じるマントラ瞑想を行っていた。マントラを唱えることの良さは、マントラの音に意識が自然と向かうことと、長くゆったりとマントラを唱えることによって自然と呼吸がゆったりとしたものになることである。しばらくマントラ瞑想をした後に、観の瞑想に移っていくことをしていた。この順番とマントラ瞑想はここからの日々の瞑想実践でより意識的に取り組んでみたいと思う。

オームのマントラを改めて調べると、AUMのそれぞれの音が、Aの音は宇宙の始まりと創造、Uの音は宇宙の維持、Mの音は宇宙の終わりと破壊を表しており、興味深い宇宙論がそこに体現されていることに気づく。また個人の意識状態と絡めれば、それぞれの音は、覚醒状態、夢見の状態、夢を見ない深い眠りの状態に対応するらしく、非常に興味深い音だということが見えてくる。オームというマントラを繰り返し唱えていると、どんどんと意識が深まっていくことを実感することができ、その背後にはこのマントラの深層的な意味と力が存在していることが体感としてわかってくる。オームを繰り返し唱えることによって、宇宙の創造、維持、破壊の永続的なサイクルを自らの内側に感じることができるし、グロス、サトル、コーザルの意識状態のサイクルも感じることができる。しばらくはこの音に焦点を当ててマントラ瞑想をしていこう。フローニンゲン:2024/2/8(木)08:40

12077. リアルと幻想を生き続けてきた人類/般若獲得の3つの道/基と道昭 

私たちは、各人それぞれの心が生み出した世界の中で生きている。そんな世界が融合し合っているのが私たちの社会なのである。私たちの心が生み出した世界は、各人それぞれリアルさを持つ。同時に、それは絶対確実で絶対不変なものではないという点でヴァーチャル的でもある。リアルであり、幻想でもあり、幻想であり、リアルでもあるというのが私たちの心の世界であり、心の世界を投影した外部の世界である。そうしたリアルかつ幻想の共有世界が私たちの社会なのだろう。VR世界やメタバースの世界などを持ち出すまでもなく、私たちは人類の歴史の最初からリアルかつ幻想の世界を生き続けてきたのである。

そのようなことを考えた後に、全ての事物や真理を明晰に見抜く深い智慧としての般若について考えていた。元来瑜伽行唯識学派の思想は般若の空の思想と瞑想実践によって成り立っている側面がある。般若という深い知恵は、上座部仏教の教説では次の3つから得られるとされている。1つ目は、書物や説法を聞く形で得られる「聞所成慧」である。2つ目は、思考や推論を働かせて得られる「思所成慧」である。最後に、瞑想実践を通じて得られる直観的な「修所成慧」である。いずれの方法も大事であり、今の自分はそれら全てを大切にしているように思う。定期的なサイケデリクス体験と日々の瞑想実践は3つ目の般若獲得方法である。そして日々唯識関係の書物を読んだり、音声動画を視聴することは1つ目の般若獲得法である。そして、それらから得られた事柄について思考を巡らせたり、推論を働かせたりすることを毎日行っていることは、2つ目の般若獲得方法に該当すると言えるだろう。

そこから今度は、改めて法相宗について調査をしていた。法相宗は瑜伽行唯識学派の流れを組んだ日本における宗派のひとつであり、瑜伽行唯識学派は仏教の教義を研究することを軸とする学術的な要素が強かったために、基本的に法相宗では葬儀を行わないというユニークな特徴がある。法相宗の改組は、基(窺基(きき))であり、基は玄奘の弟子であった。玄奘が唯識の経典を翻訳することに力を入れていた時にその翻訳作業を手伝っていたのがまさに基であり、玄奘はこの世を去る時に基に翻訳作業の続きを託し、その意志を引き継いだ基が注釈書を執筆して法相宗を開いたという歴史がある。この法相宗が日本に伝わったのは飛鳥時代の時で、遣唐使として留学していた道昭(どうしょう)が、唯識の論書や経典などを日本に持ち帰って日本に法相宗を広めたという歴史がある。こうした歴史を踏まえて、基や道昭が残した書物もどこかのタイミングでぜひ読んでみたいと思う。フローニンゲン:2024/2/8(木)09:50

12078. 集中力の高まりを実感して

時刻は午後7時を迎えた。今日は天気予報の通り、気温がかなり下がり、夕方には雪がぱらついていた。そんな中、午後にはジムに出かけ、今日も充実したトレーニングを行うことができた。今週の月曜日にジムに行った時には、腹筋と上腕三頭筋をかなり追い込んで鍛えたこともあり、それらの部位にはまだ筋肉痛が残っていて、今日のパーソナルトレーニングではそれらの部位はそれほど鍛えないようにパーソナルトレーナーのエリーザにリクエストをした。今日のトレーニングはまず大臀筋を鍛えることから始まり、大腿四頭筋を追い込むトレーニングが途中にあり、そこから大腿二頭筋を鍛えるなど、大きな部位をメインに鍛えていった。もちろん広背筋を鍛えるなどのトレーニングもあったが、大きな部位をかなり追い込んで鍛えていったこともあり、結構ハードなトレーニングであった。1時間のトレーニングの中ではエリーザやジムの他のトレーナーやそこで鍛えている人たちと言葉を交わすことがあり、ジムでのトレーニングは良きコミュニケーションの機会になっている。日本ではジムでトレーニングをしたことがないので、こうして知らない人たちと即座に会話が日本のジムで生まれるのかはわからないが、同じく身体を鍛えているという共通事項があるために、仲間意識のようなものが芽生えやすいのではないかと思う。

1時間のトレーニングの前には準備運動を行い、ジークンドーのシャドートレーニングを行った。それでもまだパーソナルトレーニングの開始までに時間があったので、大胸筋と広背筋を器具を用いて鍛えていた。その時に、トレーニング時の集中力の高まりを感じた。これは間違いなく日頃の瞑想実践のおかげだと思った。ここ最近は瞑想実践を朝夕夜の3回に分けて行うことが習慣になっていて、そのおかげで日中の学術研究の集中力だけではなく、ジムでのトレーニングにおいても意識を筋肉や身体の内側に向ける力が増していることを感じる。解脱や悟りの道は外にはなく、自分の内側にあり、自分の内面世界をくまなく観察することにあることを思うと、こうした集中力の高まりは本当に大事だと感じる。日々の瞑想と体を鍛えていくこと。その両輪があって内観力が増し、自分の内面世界の様々なことに気づきの意識をより広く深く向けていくことができるのだろう。そのようなことを考えさせてくれる体験をジムで得ることができたことに感謝である。フローニンゲン:2024/2/8(木)19:21

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