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#書く

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#ことば

言葉が出てこない、言葉が追いつかない

ただのBGMでしかなかった店内に流れるジャズが、さっきからやけに聴こえてくる。 外が少し暗くなったからだろうか、店内の照明がダウンライトのみに変わったからだろうか、ゆったりとしたトランペットの音が、滑らかに体の中をすり抜けていく。 窓際の席で、何を考えることもなく、かといって何を考えないわけでもなく、ぼんやりと目の前を通る影を眺めている。 音楽や照明にあっさり揺さぶられてしまうほど、思考は上の空で、感情もどこか地に足がついていない。 言葉が出てこない。 最近、定期券

誰かに寄り添えるなら、暗さなんていくらでも見せられる

「僕のnoteの何が良いんですか?」 普段自分のnoteを読んでくださっている方とお話する機会があり、率直に聞いてみた。実際は、もっと温度感があって丸みを帯びた聞き方をしていたと記憶している。 その方曰く、「自分が何となく思っていること・感じていることを言語化してくれていて気づきがあるから」とのことだったのだけれど、その後に付け加えるように言っていた「暗い感じなのが良い」という言葉が何だか忘れられなくて、脳内で何度もリピートされている。 確かに、自分の書いてきた文章を振

言葉にできないって、"考えてない"ってことなのか

言葉にできないなら、考えていないも同然なのかもしれない。 仕事のこと、人間関係のこと、自分の将来のこと、日々頭を悩ますそれらに対して、考えてはみるものの解決策やアイデアが思い浮かばない。 そうして、頭の中の継続案件として残り続けた案件がいくつもある。 目の前の緊急度の高い案件に対応しているうちに、それらのほとんどは頭の片隅へと追いやられていく。場合によっては、考えることさえやめてしまう。 全く考えていないわけではない。 本を買って読んでみたり、紙に書き出してみたり、

誰かにとっての「ちょうど良い」でありたい

自分の書く文章に寄せられるコメントに対しては、無条件で嬉しさとありがたさを感じるのだけれど、その中でも特に嬉しいコメントがあった。 Eileen_あやの さん おがたのよはくさんの文章、優しくてあたたかくてちょうど良い温度のお湯のような心地良さがあって好きです(失礼な表現であればすみません💦)。 「ちょうど良い温度のお湯のような心地良さ」 「僕の書く文章ってこうなんだよね」と今までうまく表現できなかったものが、一言でうまくまとめられていて、気持ちが良かった。 何よりも

100のスキより、たった一人の、生の「好きです」が嬉しい

たとえリアクションがなくても、誰か一人に届くと信じて書いているけれど、「誰かに届け」と願うより「この人に届いたのか」と分かる方が嬉しい。 自分の言葉なんて、自分の伝えたいメッセージなんて、自分が言葉に乗せた思いなんて、きっと十分には届かない、そんな気がしていた。 Web上だけで発信していると、これといった手触りや実感がない。 フォローバック目的のフォローも、自分の記事へ誘導するための下心の見えるスキも、本当にスキを伝えたくて押されたスキも、どれも無感情に「通知」として流

「書きたい時に書く」を信用できない

僕が毎日投稿を辞められないのは、正直なところ、「◯日連続で記事公開」というインセンティブに完全に依存してしまっているからだ。 創作を続けるために設計された機能が、僕にとっては、創作を義務づける機能になってしまった。 何だか、すごく申し訳ない気持ちになっている。 ただ、このインセンティブのおかげで間違いなく「文章を書くこと」を習慣にできたし、noteのおかげで文章を書くハードルが格段に下がった。 文章を書くことを「習慣」と呼べた時期もあったし、「惰性の取り組み」としか思

言葉は、拠り所にもなるし、自分を縛るものにもなる

日々言葉を使っていると、言葉を使っているのと同時に、言葉に使われている、と感じることがある。 言葉に救われている、と感じると同時に、言葉に縛られてしまっている、と感じることもある。 自分ではうまく表現できないモヤモヤを言語化できたとき、他の人がまさに同じようなモヤモヤを言葉にしていた時、拠り所が見つかったような、そんな感覚になる。 「ああ、自分のモヤモヤってこういうことだったのか」 少し安心する。 決してモヤモヤしていたのは自分だけではなかったんだ、と。 例えば、

書きたいことなんて、何も無かったはずなのに

4ヶ月前の自分が、こんなことを書いている。 書きたい何かがあって書いているわけではなくて、「何か書きたい」という衝動で書いている。 だから、書きたいものではなく、書けるものを書くようにしている。 そういえば、そうだったっけ。 最近、「書きたいこと」をずっと探していた。 それに、皮肉にも「毎日書くのはもう辞める」と宣言してから、結局毎日書いている。 - やりたいことなんて、別にない。 ぼくらは、やりたいことを見つけるために生きているわけではない。 “何かやりた

書く時間が、自分と向き合う時間になった

自分と向き合うことが大事。たとえ答えは出ずとも、自分と向き合う時間を定期的に持つことが大事。 そう思っているし、人にそう言い続けてきた。 けれど、いざ実践しようとすると難しかった。 どうしても優先順位を上げられずにいたし、日曜日にカフェに行って「よし、自分と向き合うか」と思っても、何をどうしたらいいか分からなかった。 「自分はどうなりたいんだ?」 と問いかけてみても、「・・・」と沈黙が続くだけで、かえってモヤモヤする。 モヤモヤする度に、「でも、別に今答えを出さな

書きたいことはないのに、書けないことならたくさんある

書きたいことがない、何を書けばいいか分からない。 ほとんど毎日そんな状態だけれど、皮肉なことに、書けないことならたくさんあるし、その書けないことが何かははっきりと分かっている。 文章にできるほど思考が整理できておらず「書けない」、そんなものもあれば、「書きたくない」という明確な意思のもとに「書けない」ものもある。 連日こんな文章を書いているけれど、自分のためだからとか、ありのままで良いからといって自分の丸裸を晒せるほど、僕は強くない。 書きたいこと以上に、書けないこと

ありのままでいられる場所が、一つでもあると良い

できることなら、ありのままの自分でいたいけれど、あらゆる環境や関係性において、そうあるのは難しい。 中学時代の友人に見せる自分、高校時代の友人に見せる自分、職場での自分、趣味で繋がっている人に見せる自分、親の前での自分、パートナーに見せる自分。 それらは同じ「自分」でないことがほとんどだ。 時には、その矛盾に苦しんだり、居心地の悪さから関係を解消したり離れたりすることもある。 自分は自分でしかなく絶対的なものであるけれど、相手の存在によって影響を受ける、という点では相

自分のために書く、それは誰かのためになる

自分が書きたいように書けばいい。 綺麗に整った文章でなくても、美しい言葉の羅列でなくても、自分の言葉で、ありのままに書けば良い。 ぼくは、「文章を書くこと」に関して偉そうに言える立場ではないけれど、何者でもない誰かの文章が、何者でもない他の誰かを救うことがあると知っている。 モヤモヤを言語化できない時、言語化できているけどそれを吐き出せない時、「どうして自分だけ」と卑屈になってしまった時、誰かの文章で心が軽くなる。 どんなに意味がないと思っても、誰も見てくれやしないと

「頑張れ」より「がんばれ」の方が良い

昔、「“頑張れ”って書かれるより、“がんばれ”って書かれた方が、気持ちが楽になって良い」と言われたことがある。 確かに、「頑張れ」は両肩をがっちり掴まれて熱い視線とエールを送られている画を想像させるのに対して、「がんばれ」は何となく柔らかく、軽い感じがする。 それに、「頑張れ」は色々なものを背負っていそうだけど、「がんばれ」は本当にただその言葉の通りのような、そんなイメージがある。 言葉にした時の音も意味も全く同じだけれど、文字にすると、受け取り方やイメージが変わってく

言葉の使い方は、生き方そのものだった

昨日、言葉の綾に関する記事を書きながら、言葉の使い方一つで心の持ちようや価値観、ひいては生き方をも変わってしまう、と感じた。 言葉は他者との意思疎通に欠かせないツールであると同時に、自分自身との意思疎通にも欠かせないツール。 自分が日頃何気なく選ぶ言葉の一つひとつで、自分の気分は移ろい、価値観さえも形成されていく。 今の自分を形成している要素は、もちろん過去の様々な経験だけれど、掘り下げると結局は「言葉」だと思う。 出会った人と交わしてきた言葉、恩師に言われたひとこと