愛のまなざし
心の瞳。
ご存知でしょうか。
歌手で俳優の坂本九さんの遺作と云われる名曲です。123便墜落事故でお亡くなりになられてしまったのですよね。
私は学生時代、音楽の授業で知りました。当時はこの深い愛の詩があまりにも壮大で、ちょっと恥ずかしいなぁ、なんて思っていたものです。
さて、心の瞳とはなんでしょう。
人間は目の動物だといわれます。
視覚から得る情報にかなり依存しています。
「見る」イコール「知る」
例えば第一印象なんかはたった3秒で、その人のイメージがほぼ決まってしまい、その印象が半年間も続くとか。
就職活動でも第一印象!とうるさくいわれるくらい、私たちは目から入る情報が残りやすい生き物だといえます。
だからこそ、集合無意識的に清潔感のある服を着るのかもしれません。
ダイエットや、体を鍛えたり、見た目の美しさに固執したり。
誰ぞ知らぬ内になんとなく定まった造形の整った顔に変えたり、その一定ラインを下回らない工夫をとても大切にしているのかもしれません。
次のエピソードです。
ピアニストの辻井伸行さん。私は彼の演奏が大好きなのですが、彼は伴奏しながら左右に首を振るような仕草があり、揺れ動きます。
盲者と友人の方が「辻井伸行さんは演奏中、見えないのに首が左右に動くんだろう?まるで何かを捜しているようだ」と尋ねたところ、その盲者の方は「それはね、目が見えないぶん、わたしたちは別のものを感じるんだ」と応えたそうです。
ギリシャ神話にもテイレシアースという盲目の賢者が登場します。盲目であるが故に内観、内側への視界が拡がり、私たち見える者より多くを知る「賢者」なのだと私は思います。
物事の本質は身体(眼球)から得るものではなく、心で知るものだ。ということですね。
私はこの2つの話から「心の瞳」を感じました。
先に話した「目で知る」私たち。
目でインプットした情報が無意識的に残るからこそ、生きやすいようで生きにくくなっているのでは?と考えました。
心の瞳の歌詞では
『心の瞳で君を見つめれば
愛すること それがどんなものだか
分かりかけてきた』
と書かれています。
愛は眼球からは見えません。
ですが心の瞳なら見えるのではないでしょうか?
また「恋は盲目」といわれる由縁は、心の瞳が閉じている状態(知ろうとしない。理性が効かない状態である)だと思います。
恋と愛は違うとも言いますね。
恋は下心、愛は真心なんて言葉も、なんとなく的を得ていると感じるのです。
生き物のベースは「自分が愛した者から同じように愛されたい」というエネルギーの塊だと思います。
私たちは不完全です。
悟りの境地に至っていない限り、無償の愛をひたすらに渡すだけでは満足出来ません。
必ずそこには「渡した愛を喜んでほしいと願う私」がいるはずです。
ただそれは決して悪いことではなく、愛するだけでは満足せず、愛されたいと願うのはとてもナチュラルです。
理性を失った情熱的な恋と心からの愛は、どちらも相手を想いますが、ベースの素材が明らかに異なるのです。
心の瞳で見つめ、心から相手を知ること。
そうすることで、相手を見ていたはずなのに、自分の中の愛がなんとなく輪郭が見えてくる。
人は皆、愛するために生まれました。
何かへ尽くす、献身的でいられることはとてもヒトらしいと思うのです。ただそれを忘れている人があまりに多いと感じるのです。
あなたは心の瞳で愛する人を見つめていますか?
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