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料理は結局、塩とオイルが一番美味い。

こんにちは。

唐突ではありますが皆様方におかれましては「生き甲斐」に何を据えて生きていますか?

というか、そもそも「生き甲斐」ってありますか?

何より、「生き甲斐」って、なんでしょうね?

僕もある時までは人生の生き甲斐を全く見出せずに彷徨うように生きていたので、物悲しさというか、心ここにあらぬ状態を強く覚えています。

では今はどうかと言いますと、なんと一転やりたいことが多すぎて、つまるところ生き甲斐まみれで全然手が回らない、と言った具合です。

このご時世、インターネット上では不意に「既に何者かである大人が努力しろと語りかけてくる」現場に立ち会ってしまうことも多いのではないでしょうか?

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僕個人の見解ですが、生き甲斐はあるに越したことはないけれど、無くてもいいものなんじゃないかなって思います。

むしろ生き甲斐がしっかり定まっていなくても、なんとなく心地いいものを追いかけていたら生きていける世界はすごく豊かな世界なんだと思います。


さて、一方で僕自身は高校生の時分、強くそこへ当てはまる“何か”を欲していました。

それまで学校の勉強こそが人生の命題とばかりに教えられていた僕は、それまで抑圧されていた欲求が堰を切ったように溢れ、アニメを一日中見続けたり、スマホでゲームをしたり、SNSを介して人と雑談をして毎日を過ごしていました。

もちろん好きなアニメ、好きなゲームをやったり、気の合う友人と話すのは楽しく幸せな時間でした。
しかしながら、(学生の本分であるところの勉学を生贄に捧げていたからでもありますが、)いつまで経っても“何か”が欠けている気がしてそわそわしていました。

なんとなくこのまま大学へ進学して、これっぽっちもやりたくない講義を聞き流して卒業したり、全く関心のない仕事をしながらなんとなく楽しいことをしてなんとなく生きていくのかな。
というか、それしか自分には道が残されていなくて、それ以外に道など存在していないのだと本気で思い込んでいました。

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ある時、歌を歌う数人と友人になり、自分も意識して歌や音楽を聴いたり口ずさむようになりました。
当時友人間で流行り始めていたマインクラフトでは建築を好んで行うようになりました。
美術部に形だけ席を置いたことで、それまで惰性で続けていた落書きのような絵も漫画を手本に少し練習し始めました。

時間ができたことと友人との出会いによってちょっとずつ『つくる』を始めたわけです。

当然歌も建築も絵も知識などなく、最初はとんでもない完成度でしたが、インターネットとは便利なもので動画やサイトで上手い人の前例を閲覧できるため、それを見て自分なりに研究し、また実行する。

そんな試行錯誤のプロセスが面白く、何かができるようになったり、できたものを他の人に見せると褒めてもらえるのが嬉しくて、どんどんとのめり込んでいきました。

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それから月日はたち、芸術大学へと進学した僕はそこで初めて遊びではない「クリエイティブの社会実装」を目にすることになります。

学歴だけがものをいう世界だとばかり思っていた自分にとって、それは一番星のように強く確かな光で、社会と自分を強く結びつけることのできる最良の手段だと確信したのです。

そしてその時から、それを成し得ることこそが僕にとっての「生き甲斐」となりました。

それは今も変わらない僕だけのオリジンで、この原点をどこかへ記しておきたかったんだ。

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世間一般的にいうところの社会不適合者である僕には、社会と自分を結びつけて生きていくには何か普通ではない手立てを考えなくてはならない!と言った強迫観念のようなものが心の中にあって、それをずっと探していたのだと思います。

それはきっとそれまでの自分を取り巻いていた環境や社会の影響が強く反映されて形作られたもので、祝福であり呪いでもあるでしょう。

そのおかげで好きなことについて学べたり、好きなものと関わったりできている一方で、生き甲斐に縛られて辛酸を舐めることがあるのもまた事実。


きっと「生き甲斐」なんていうものは料理でいうところの調味料みたいなもので、人生のベースは素材の味、つまるところ「人間性」がほとんどであり、重要なのはそっち。

味が強いものは美味しいけれど、そればっかりではやっぱりダメで。

これからは素材の味を活かした料理に僕はなっていきたいな。


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