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ヨハクを埋める余白のある旅

pooloの山形、新潟旅を通じて感じたこと。

密かに配信を楽しみにしてるRADIPOで聞いた
「旅を楽しかっただけで終わらせるのはもったいない、そこで何を感じたか考えたい」
という話を思い出して書いてみる。

以前の講義で人生には余白が必要、と聞いて
「たしかに心に余裕がない(仕事に追われてたりする)と好きなこと、やりたいことも楽しめないよな〜」と思いつつ
「人生限られてるしやりたいことたくさんあるし無駄なことしたくないよな〜」
と効率性を求めてしまう貧乏性が共存してる自分。
でも社会人になって仕事でメンタルが疲弊して動けない時間が増えているわけで。相反する考えが共存するが故にこれでいいのか?と悩む日々。

それは旅のスタイルにも現れており、学生時代は綿密に計画を立てて訪れる観光地、行き方、ご飯を食べるお店やタイミングまで準備して旅行を迎えていた。
だけど社会人になってからはそこまでする余裕はなく、ざっくりとしか決めないスタイルになっていた。だから自分が主催した香港旅行企画はこんな中途半端で大丈夫かな、みんな楽しめるかな、と不安でいっぱいだった。
その直前に行った高知旅が完璧なプランニングだったからこそなおさら。

ここでタイトルの伏線回収に戻るため、この記事での「ヨハク」と「余白」について定義する。

ヨハク…人生でやりたいこと、願望
余白…余裕、のんびりできる時間、空白の時間

人生はヨハクを埋める行為だと思う。やりたいことを実現するために生きる。バケットリストなんて言葉があるくらいだし。
そしてそのためには余白が必要。
ヨハクを埋めようとすると余白がなくなり、余白を生み出すとヨハクが埋まらない。

そんな中で、今回の旅は自分にとってヨハクと余白が共存する旅だった。

【ヨハク】
・グランピング
・花火
・花火文字
・フルーツ狩り(さくらんぼ狩り)
・ぽんしゅ館
・行ったことがない土地を訪れる(山形)

【余白】
・特急ではなく観光列車であえて時間をかけて移動することでメンバーと話をしたり、物思いにふけてみたり。
・コアな行き先は決めつつ、細かいところはゆるゆると自然な流れで決まってみたり。

ヨハクと余白のバランスは心地よく感じるポイントがあり、そのバランスはその瞬間瞬間で変わりゆくものなのかな、と思った。

人間の心ってコロコロ変わるから面倒だな〜〜〜。自分の軸って未だわからんな〜〜〜。

そして余白も捉え方によっては新たな発見や自分と向き合う時間として大事な存在だな、と感じた。

「せっかく一歩踏み出したんだし周りの目を気にしたり食わず嫌いはよくないよな〜、なんでも来い!」
の気持ちで企画が立ち上がった時点で予定が埋まってなければ参加表明してる自分。そしたらみんなにどこにでもいる認定されて恥ずかしくなってきた今日この頃。

みんなが魅力的な企画を立ち上げすぎるせいで時間と金銭的にさすがにそろそろ参加できない企画も出てきてるよ!ごめんよ!!

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