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児童文学は失われたのか

子どもに『はてしない物語』を読み始めた。

主人公のバスチアン・バルタザール・ブックス10才は日々の現実がつらい。空想好きの彼を、学校の同級生は頭がおかしいと言っていじめる。学校の先生は上機嫌のあとに八つ当たりをしたりするので信用ならない。母は死んだ。父は歯科技工士で、母の死後これまで以上に仕事ばかりで彼の様子に気が付かないようだ。

バスチアンは、ふとしたことから古い本を一冊盗んでしまった。もう家に帰ることはできない。彼は学校の物置に忍び込み、本を開いてその世界に溶け込んでいく……。

作中の本の装丁そのままに、私が娘に読む本は作られている。今ではあまり見かけなくなった上質な装丁だ。紙質がよいのか、購入から20年経ってもシミひとつない。酸性の紙を使っていないのだろう。

「幼なごころの君は――臥せっておいでなのです。」

この表現が理解できる小学校中学年、高学年はとみに減ってきているのではないか。
言語は失われた。物語とじかに繋がった、美しい装丁の本も失われた。電子書籍の時代である。エコで低コスト。それはいつでも素晴らしいことだったろうか。児童文学は失われつつありはしないか。

つらい子どもたちの逃場で、ゆりかごであった児童文学や、手触りのある本の世界は、タブレットを触る時間に置き換わった。タブレットの中に精神的な安全基地はあるのだろうか。その荒野の中を、一日に十時間近く歩き回る小中学生がいる。もはや少なくはない。本の中も荒野には違いない。知的に未開の地を歩く体験が、今の子どもたちにどのくらいあるだろうか。

本に安全基地を見いだせなくなった子たちは、どこに受け皿を持つのだろう。やり場のない気持ちは?空騒ぎでない心のゆらぎは、物語の主人公に共感しカタルシスを得たのちに、心理的な現実世界での盾になっていくのに。

言語を失っている子どもたちは、学校生活でも集団性を発揮できない。中学生になっても、椅子に静かに座ることに成功しない状況が散見される。クラスメイトと対話するための言葉を持たない子どもたち。言語が、内面から外へ働きかける力であると……その表出を自分で選べるのだということを、文化的に知らない子たちが増えている印象がある。

何が言葉を失わせるのか。それはモノの手触りの不在、人ひとりとしての悩みを大いに肯定する物語の不在、絶対安全な心理基地としての物語の不在のように思われた。