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掌編小説 夕暮れに影を追う

男の後ろ姿に見覚えがあった。ひょろりと背が高く、やや左に傾いたように歩く。鼻歌でも歌うような力の抜けた足取りに合わせて、薄いなで肩が上下する。

まさか。いや、でも。ためらうよりも先に足が後を追っていた。その日の勤めを終え、帰り道の途中だった。空が、桃色がかった橙から、透きとおる藍に色を変えようとするところで、ガラス細工のような高層ビルの群れが輝きはじめていた。川を渡ってくる風がぬるい。街と自分の境目があいまいになっていく。

後を追うといっても、男の通る道は、わたしがいつも通勤に使う道だった。見慣れたはずの景色ながら、初めての場所にいる心持ちだ。男の歩幅のほうが大きいので、少し早足になる。距離をあけすぎないように詰めすぎないようにと、ビルの間を縫い、劇場の前を過ぎ、石造りの橋を渡った。

わたしは必ずこの人を知っている。鼓動が速くなる。

車の絶えない大通りから、ラーメン屋とマッサージ店の間の道に入ると、小さな食事処やクリーニング店が軒を連ねる商店街になった。寺がめぐらせる塀に沿って歩みを進める。

シャッターが閉まったままの焼き菓子屋の前で、電灯がやけに煌々としていた。ふいに男は立ち止まった。いきおい距離が詰まる。声をかけたら振り返りそうなくらいに。男は靴ひもを結び直そうとしてか、身をかがめた。その拍子に、チノパンの裾から靴下がのぞいた。薄闇に、青が浮かび上がる。

ああ、その靴下。やっぱり。何十年も前に、好きで好きで好きでたまらなかった演劇部の先輩じゃないか。靴下は、自由になるお金などほとんどない身でやりくりして渡した誕生日プレゼントだった。どうにか好きな色を聞き出して、時間をかけて選んだ品だ。わたしと同じ名前の、仲のいい彼女がいて、叶うはずもない恋だった。星空の美しい高原で夏合宿を終えて長距離バスで帰ってきた夜、先輩は車窓からわたしたちの街をのぞんで「都会の灯りにほっとするなんて、毒されてるよなあ」と楽しそうにつぶやいていた。そうして地元に戻り就職してから間もなく、ビルの屋上という舞台から夜空に飛び立った。

知らず押さえこんでいた記憶の蓋が開いた。名前を呼びかけようとしても、のどがつかえて声にならない。こらえきれずに前の影に駆け寄る。

その顔をのぞきこもうとしたとき、何かに後ろから肩をぐいと引っ張られた。反射的に振り返ったが、誰もいない。アスファルトの道が黙って延びているだけだ。

もう一度、前に視線を戻すと、会いたかった人の姿は消えていて、知っているような知らないような道にひとりたたずんでいた。


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短い小説を書いています。よろしければ、こちらもぜひ。


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