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やめるという無理難題

人間はいくつものツールを駆使して生きている。
太古から使用してきたツールに加えて現代には夥しい量のツールが存在している。
その中でもSNSの進化は凄まじい、中学生の時に両親にスマホを与えてもらってからそれによって拡がった世界はあまりにも大きかった。

トラブルを起こしまくった。ネットリテラシーなんてものはなかった。今思い出すだけでも消えたくなる数々の恥ずかしい行動をしてきた。
恥ずかしい行動を消すために、全て消してきた。消せと言われたものもあった。
そのうち消すことが常態化してしまった。
私のSNSは全て過去の物を消去するか非公開にするかのどちらかで、公開されているものはここ1年程、いや、それすらもないのではないだろうか。

自分の思考を赴くままに書いていたが、それを自分史に加えることに羞恥心を抱いている。
noteもそう。3年前に登録していたらしい。公開していた記事をなんの迷いもなく下書きに戻した。つい3分前に。内容は読んでいない。
プロフィール欄を変更して、「目標は記事を消さないこと」とした。
本来自分史に加えられない思考などなく、全て自分の脳が「これを書く(打つ)」と司令して文字にしたものなのに、異常に恥ずかしい。
恥ずかしいと思えるということはそれほど稚拙な文章を書いていたという自覚があり、ある種まともな成長でもあるが、例えば自分の子供が幼稚園生であるときに描いたクレヨンの絵を「下手くそだから」と捨てる親は、子供に愛情を持って接する親なら、まぁいないだろう。
私は26歳だが、自分の成長は自分が1番感覚的にわかるものであり、それを無かったことにするのは宜しくない。しかし公開するに耐えない。許してくれ、目標を立てた私、それだけは。
もう少し羞恥心が収まった頃に、黒歴史を開封する気持ちが出来上がった頃に、開封させて欲しい。

3年前、恐らくそれよりももっと前から変わらない、辞められない事がある。
留まることを知らない思考だ。
現代人の1日の情報量は、平安時代の人の一生分、江戸時代の人の一年分、らしい。どこで見聞きした情報か忘れたし、私は平成生まれなので実際そうなのかも分からない。
ただ私の脳のキャパシティは大きくないので、そんな膨大な情報量を処理できない。処理すら出来ないのに、ふと脈絡もなく生まれた事柄を考えるのをやめられない。
アウトプットをしなくては、と思うのにこうして書くと止まらなくなるので結局面倒くさがって辞めてしまう。
そうこうしているうちに1000文字を越えてしまった。右下に文字数カウントが出るのは素晴らしい。余程書きたいことが纏まっていないことの証拠だ。

考えることをやめられたらどんなに楽だろうかと何度も、何十回も、何百回も考えた。人生に悩み始めた8歳の頃から、恐らく。
でもどう頑張ったってやめられない。やめる必要もない。
考えることで地に落ちていくことを考え続けるのはよろしくないが、そうでも無いならやめなくていい。
取り留めもなく様々なことを考えるのは悪いことでは無い。寧ろ、割と考え続けられる忍耐力はじ自分のことながら買ってやりたい。
自分のいい所、1つめ、考え続けられるところ。
そうだ、友人と「定期的にポジティブ会しよう」と言ったんだった。自分のいい所を自分で挙げるというとんでもなく難しい会。
自己肯定感が現状地獄の底に落ちている私には打って付けでやりやすい自己療法だ。

そう、ポジティブ会も、思考をやめることも、私にとっては同じく無理難題だ。
目標は、書いた記事を消さないこと。そして、思考をアウトプットすること。

明日も11時には起きたいのに、もう3時になる。
好きな本を好きなだけ読んで、眠くなったら寝る生活がしたいものだ。

ハッシュタグは、とりあえずAIの解析で出てきたらしい文章にまつわるワードを入れることにした。とりあえず。

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