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日常|一人では何もできない

外出先で、カフェに入ろうとする

お客様は何名さまですか
(人差し指を上に向ける、一人の意)
お席ご案内します

僕は、とてつもなく一人で店内に入る事を苦手とする、誰かと一緒であるならばいい、声の出にくさと赤面症が、それを助長する

話さなければならない場面など、日常で腐るほど存在するが、僕はそういった場面をなるたけ避けたい傾向にある、先ほども申した通り、声が出にくく、加えて、どう思われているか過剰に気にする癖があるからだ

レジの店員さんと話さなければならない場面においては、完全にあちら側に主導権を握られているから、僕は完全アウェーな立場にいる、袋はお付けいたしますかに対する僕の返事は、限りなく頼りない声で絞り出す「大丈夫です…」だ

話は少し変わるが、爆笑問題の太田さんは、テレビでこそぶっ飛んでいるが、ラジオか何かのファンが、偶然にも街中で太田さんと出会った時、あのテンションは何処へやらといった具合に、小さくか細い声で「ありがとうございます…(応援していますに対する返事)」と挨拶をしたらしい

仕事という仮面をかぶることで、踏ん反れるとまでは言わないが、その限定的な集団における、確固たる地位に、人は少なからず依存する、太田さんは、あのテレビという空間、何をやってもどうにかしてくれるという絶対的な信頼(しているかわからないけど)の下、あの破茶滅茶な芸をこなすことが出来る

僕はといえば、一人という確固たる世界観の中で、非常に脆いその世界感の中で、頼りなさを抱きつつ、その他の巨大な世界に覆われる恐怖に打ち勝てず、根負けし、萎縮する自己を無意識に形成してしまう、胸を張ったところで、内部が整っていなければ、ただの今にも割れる風船だ、僕はいつもそんな弱さと向き合っている

器質的な要因として、声が出にくいという症状は、それを強く後押しする、むしろ、それが無ければ、僕はある程度、自分の世界にも少し寄りかかり、寄りかかっても崩れないという安心の下、他の世界と向き合っていけるのではなかろうかと、考えることが多い、それくらい僕にとっては、声が出にくいという症状の重さを、日常で常に感じているのだ

考えて見てほしい
カフェに入店して、メニューを閲覧し、ザブングルの塩マリネ風ビリヤードという料理を頼もうとしよう(否、そんなデタラメな料理はこの世には存在しない)、声が出にくいのだ、それだけでもうストレスのはずなのに、わざわざこの言いにくい単語を、人の2倍の労力を使って言わなければならないのだ

その精神的な消耗は、これはなってみなければわからない、例えるなら、喉を両手で抑えながら、声を出さないようにグッと力を入れて、その中で、声を出すというものだ、今、実際にやってみたところ、井上陽水風の声が出た

夏が過ぎ、風あざみ
私の心はファンタスティック

そんな悩みをここ何十年も抱えながら生きている

一人では生きてはいけない

これは、周囲の助けなしには、人生を生き抜くことは出来ないの意であるが、僕の場合、その謙虚さと、単純に、誰かが居ることへの世界観規模での安心が、僕の精神の緊張を解く作用があり、それが果ては、ザブングルの塩マリネ風ビリヤードという料理名を、言いやすくするためのエッセンスに繋がるという意味合いが多分に含まれている

今日はどうしようか
写真を撮りたくないわけではない
僕の行動力は、体調と(そうそう体調もよく悪くなるのである)、声の出やすさ、気分に左右される

出掛けたらいいことあるかねえ

#日常 #日記 #雑記 #君のことばに救われた #井上陽水 #少年時代 #ざわわ

いわゆる、駄文