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抜毛症だった件について。

「抜毛症」という病気が存在するのを去年知った。
主に思春期の女の子が陥りやすい、周囲からのプレッシャーなどのストレスを、自らの髪の毛などを抜くことでサインをだすのだそうだ。

そして驚くことに、それはまさに自分が15~16歳のときに陥っていた状態だった。まさか病気として存在したとは知らず私は衝撃を受けた。

今となっては自分のせいだと思えるが、当時は両親をひどく恨んだものだった。田舎の小さな街で、先生と医者、市議会議員の家庭。市内では優秀な家族として知られていて、比較的厳しく育てられたほうだと思う。常に「いい子だね、何でもできるね」と言われてきた。変に器用な私は両親や家族の期待に応え、そして失望させることのないよう徹し、気づけばそれが人生で、自分の行動を選択する基準だった。

ただ、私の人生はそれだけだった。期待に応えるにはどうしたらよいのか。どうしたら怒られずに済むか。要は勇気がなかった。そうすれば何もかもうまく進むからだ。周りに認めてもらえるからだ。周りの機嫌を損ねず、物事が丸く収まる。それが得意だったけど、人生が本当にそれだけになっていたのだ。

具体的に何があったというわけではなかったけど、誰にも本当の自分を見せられないことに、しれずと相当な苦しみを感じていたみたいだった。なぜそうするのか自分でも理解が及ばなかったが、私はいつからか自分の髪の毛を抜くようになった。
はじめはおでこの生え際だけで、前髪をおろしていればバレなかった。美容師さんに「ちょっとハゲてるね」と言われたときはドキッとしたが、それでも私は毎日自分の髪の毛を抜いていた。止まらなかったのだ。

毎日1時間くらい髪をぬいていき、気づいたときには髪の毛をおろして歩けないくらいに頭皮が見え始めていた。当然、両親を失望させるわけにはいかず、家族には気づかれないよう徹した。美容院にも行けなくなり、ずっと伸ばしっぱなしにしていた長い髪を常にポニーテールにするようにしていた。

その状態がおそらく何か月か続いたとき、髪の毛を抜く手が止まらない自分に、自分でも流石に何かがおかしいと気づき始めた。何もしなくても涙が出てくるし、日記に書いていた言葉もおかしかった。

何かをきっかけに同級生のお母さんがカウンセラーをやっていると聞き、初めて話に行ったとき、考えられないくらい泣いたのを覚えている。
自分が何を感じているのか、自分が何に苦しんでいるのか、その人が私に教えてくれたのだ。それまで、自分の心に目を向けたことなどなかった。「自分は苦しかったんだ」と気づけたとき、ずっと心にあったもやもやがスッキリした。

母親に勇気を振り絞って、私は髪の毛を抜いていると告白したとき、言われたのは「強く生きよう」だった。私はまた心を閉ざしてしまった。

相手がどうしてほしいかで行動するのではなく、自分がどう思うのか、それを言っていいし、認められるためにではなく、ただ自分がしたいことをすればいいと知ったのは、19歳で今のパートナーと出会ってからだった。自由にやりたいようにやっている彼の生き様をみてそれを気付かされ、やっと自分の人生が始まった気がした。

18年間、人のために人生を生きてきて、タイムロス甚だしいし、今でもやはり面接などの大事な局面になったとき、自分の意見を考えるのが後回しになったり、遠慮する癖が抜けないことがある。そんな性格なりに、自分がやりたいことに目を向け、意識的に自分がやりたいことを考えるようにして人生を取り返そうとしている。取り返すという言い方は好きじゃないし、この歳になって必死に何かを頑張って恥ずかしい気もするが、私にはやりたいことがあった。
やりたかったことは全部やりたいんだ。後悔するくらいなら。


・・・


このように苦しい記憶に悩まされた中高時代だったが、あとから聞いてみれば、母親も自分の両親への期待に応えるためにずっと悩んでいたみたいだった。父親にDVを受けていた母。それでも両親の期待にどうしても応えて、自分を愛してくれる存在だって信じたかったんだろうな。

日本の従来の社会では、「自分がどうしたいか」ということを周りに表現することが、あまりにタブーとされてきた。だから子育てのときにも「いい子にしないなら家にいれません」「できないなら赤ちゃん組にいれますよ」といった、相手を否定することで思い通りにさせる手法が横行している、とある評論家が語っていた。「私は困っている」でいいのに、と。


誰かに認められることは嬉しいことで、人間の欲望である承認欲求を容易に満たすことができる。
でも、もうそれを基準に行動するのはやめたい。自分をもう消したくないから。
ほんとはとってもわがままな自分なはずで、私はそんな自分が好きだった。
自分がどうしたいのか。自分は何が好きで、何が嫌いで今どう感じているのか。
それを周りに伝えることに何も悪いことはない。

自分がもし子どもを授かって、一緒に生きていく中で、
自分を大事にすることを教えられるように。
その時まで、私自身が自信を持って
自分に胸を張れるように
今日も私は自分を生きる。

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