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システムを解きほぐす、「他者」への想像力|映画「PERFECT DAYS」

ひとりの男の「環世界」

昨年の暮れに公開された映画「PERFECT DAYS」をようやく鑑賞できた。

トイレの清掃員として生きる主人公・平山の日常をこれでもかというくらい淡々と描いた、なんとも不思議な作品だ。見る人によっては相当退屈だったに違いない。来る日も来る日も同じルーティンをこなす平山の生活は、まるでタイムリープのようにも見える。時折、他の人物の登場や働きかけによって日常にさざ波が立つこともあるが、それでも彼の日常は揺るがない。平山は彼自身で自己充足しており、そういう意味でまさに"完全なる日々"を送っている。

平山の暮らしぶりを見て、ドイツの生物学者/哲学者・ユクスキュルの「環世界」を思い出した。環世界とは、生物それぞれが独自の知覚の仕方で時間・空間を知覚し、主体的に築き上げた世界のことである。要するに、すべて生物が独自の世界を生きているという考え方といえる。ユクスキュルによれば、生物の環世界はシャボン玉のようなものに包まれており、それぞれは接し合ってはいるものの、そこに摩擦はなく、全体として調和を取りながら存在しているという。実際に劇中でも、平山と姪の会話の中で、人間それぞれが自身の世界を生きていることに触れる場面があった。環世界ほど、この映画を形容するにふさわしい概念は他にないと思う。

「縮退」への処方箋

人の暮らしを生物の生態系の視点で眺めたとき、この静謐な映画の鋭い批評性が浮き彫りになる。

物理学者・長沼伸一郎の著書「現代経済学の直観的方法」の中で、社会のあり様を生物の生態系になぞらえて現代の問題点が指摘されている。長沼によれば、現代の閉塞感を生み出しているものは、「縮退によるコラプサー化」だという。やたらと難しそうな言葉だが、その中身は実にシンプルだ。

「縮退」とは、各生態系の相互作用が少数の強い者の間だけで完結・均衡化することで、全体の量的拡大に反して周辺・末端が衰退している状態のことを指す。例えるならば、IT業界においてGoogleやAppleなどの大手企業が市場を席巻ような状態といえる。巨大な企業の存在によって市場規模自体は大きくなるが、逆にそれ以外の企業の力が限りなく弱い状態を想像すると、縮退のイメージがよくわかると思う。縮退は、もともと多数のプレイヤーの相互作用で均衡が保たれている生態系が劣化することで起こる現象だという。多様性のある生態系は、意図して作ることができない偶然の産物であるがゆえに希少性が高い。残念なことに、一度縮退してしまった生態系は、もとの希少性の高い生態系に自動回復することはできない。このように、縮退が加速することで進むことも退くこともできずに回復手段を失ってしまう状態を、「コラプサー化」という。つまり、縮退によるコラプサー化とは、一つの巨大なシステムが、その他の小さなシステムを飲み込んでしまっている状態といえる。

いまや僕らの社会は、隅々まで新自由主義と市場原理というシステムに支配されている。政治・経済はもちろん、僕らの内面にさえも、新自由主義に端を発する個人主義と自己責任論が深く根付いてしまっている。一つの価値観が支配的になるということは、物事を判断する尺度も単純化されてしまうということだ。システムからはみ出ようものなら、途端にバッシングを受けるし、必要以上に自分で自分を責めることになりかねない。だから、いかにシステムに適応するかに全員が神経を注ぐことになる。システムの外を想像する力がどんどん痩せ細り、それが縮退をさらに加速させる。逃げ場など、どこにもないと思えてくる。

縮退によるこういった息苦しさを解消するには、長沼が言うような希少性の高い生態系を維持する必要がある。大きなシステムに絡め取られない、小さな相互作用が生む生態系が、社会に余白を作り出す。

そういう意味で「PERFECT DAYS」の平山の生き方は、システムへの静かな抵抗を示しているように思う。彼の暮らしは、完全に彼自身で自律した系(システム)を成している。ここで重要なのは、山奥での隠居生活のような、社会から隔絶された生活を平山が送っているわけではないということだ。普通の人と同じような消費行動もしているし、他者との交わりもある。
けれども、そこに過度にのめり込むこともなく、付かず離れずの距離を保って暮らしている。つまり、社会のシステムの中で生きながらも、自分自身を充足させる別のシステムをきちんと保持してるのだ。

お金がなければ、家族がいなければ、情報がなければ、人は幸せになれない。多くの人がそう感じてしまうのは、それを良しとするシステムに飲み込まれているからに他ならない。逆に、小さくとも自らのシステムを生きることは、この上ない充足感をもたらしてくれる。社会の持続性の観点でも、個人の幸福の観点でも、平山のような慎ましやかな「暮らしの生態系」が持つ意味は大きいと思う。

「他者」をつぶさに想像する

人びとが独自の「暮らしの生態系」、つまり「環世界」を維持するためには、他者の暮らしの尊重が欠かせない。そして、尊重は想像から生まれる。
他者を想像することなしに、他者を尊重することはできない。

「PERFECT DAYS」は、日常の解像度を極限まで上げることによって、平山自身の生活だけでなく、日々交わる他者の存在も描き出している。

トイレ清掃の同僚とその知人、マル罰ゲームの相手、年配の浮浪者男性、昼休みのOL、銭湯の常連客、飲み屋の店主、小料理屋の女将と元夫…。素晴らしいのは、決してこれらの人物たちと平山による"ドラマ"が始まらないことだ。必要以上に交わることなく、それぞれの他者が日々そこに居ること、それぞれの世界がそこに在ることを、ただただ受け止めている。

ドラマを始めるということは、因果の線に沿ってディテールを捨象することだが、日常はまさにディテールの集積から出来上がっている。物語をあえて駆動させないことが、他者の日常を想像させ、その人なりの世界があることに思いを馳せるきっかけを与えてくれている。

平山のような人が本当にいるかもしれない。そんな想像が、他者への、社会への寛容さを生んでいき、大きすぎるシステムを解きほぐす力になっていく。これこそがまさに、僕らの社会にフィクションが必要な理由ではないだろうか。

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