見出し画像

湾岸曲芸団②

前回のあらすじ
 1995年。湾岸の埋立地に、十二歳の相太と十歳の相司が住んでいた。
 相司は兄の相太以外には心を開けず、親や学校、周囲の子供たちとは全く馴染めなかった。
 ある日、相司は相太とサーカスを観て、自転車の曲乗りに興味を持つ。


第二話
 相司が自転車の練習に励んだのは、利便性を求めたからではない。曲乗りがしたかったからだ。そんな目的で自転車の練習をする子供も滅多にいないだろう。相司はあのとき人工海岸で味わった絶頂感を、一人でも味わいたいと思ったのだ。
 相司には自分用の自転車を与えられていた。一年前に買ってもらったものだが、まったく練習していなかったので、新品同様だった。相司は柔らかい土の空地で練習を重ねた。兄に練習の事を言わなかったのは、曲乗りぐらい一人で成し遂げようと思ったからだ。 
 相司は練習を始めてすぐに曲乗りどころではない事に気が付いた。何度も転倒して大の字になり、空と高層ビルの切れ端を眺めるたびに、自分が自転車に向いていない事を思い知らされた。
 土は柔らかくて服が汚れるほどではなし、怪我をするでもなしのちょうど良い具合だった。ここにビルが建つ予定だったのだ、と相司はぼんやりと考えた。空地と言えば、あの自転車の集団だった。奴らが来そうな時間帯はすでに確認している。連中が来ない時間を見計らい、相司は転倒を繰り返していた。
 青い空と白い雲を眺めながら、いつかはサドルの上に立ってみたい、と相司は思った。自転車を運転しながら、まず足をペダルから離してサドルにかける。その時点では生まれたての子犬のように危なっかしくて不安定だ。それからハンドルから手を離し、サドルの上に起立する。聴衆の不安は吹き飛び、その堂々とした姿に圧倒される。そして気が付いたら拍手喝采を送っている。少しよろける仕草を入れてみても良いかもしれない。人々は息を飲むが、すぐに立て直された体勢と、余裕の笑顔を見て、それが意図的な崩しである事を知り、相司の心憎さに歓喜するだろう。
 そんな空想もむなしく、現実の相司は地面に這いつくばっていた。曲乗りをする前に普通に自転車に乗れなければならない。そんな前提すら相司には難しく思えた。自転車に乗るなんて誰でも出来る事だ。そんな誰でも出来る事が、一生出来なかったらどうしようと考えると、相司には青い空が翳って見えた。
 誰かが倒れた自分を覗き込んでいる。それに気づいたのは、顔に影がかかり、視界が薄暗くなったからだ。例の自転車集団の一人、松井だった。いつも無表情で、集団で相司を笑う時も口角を上げるぎこちない表情の変化を作る。それが相司にはとても嫌だった。本当に面白いのか。自分だけ浮きたくないので周囲に合わせて笑っているのか、わからなかった。どうせ笑うのなら、他の連中と同様に豪快に笑い飛ばしてほしかった。
「何してる」
 松井が相司に尋ねた。相司は松井が単独行動しているところを初めて見た。集団から離れて個として動いている。そんな松井はどこか不格好だった。集団でいるときと同様に自転車に乗ってはいるのだが、不安定で自信がなさそうに見えた。松井に限らず、他の連中も一人で見かけたら、きっとそう感じただろう。あの集団は集団である時にひとつの生き物じみた躍動感が生まれる。相司はあの集団が嫌いだった。だが、認めたくはないが、彼らに小さな羨望を覚える事もあった。
「自転車の練習」
 と相司が答えると、松井は口角を上げるぎこちない笑みを作り、相司の願望を見抜いた言わんばかりに小さく頷いた。相司の自分たちに対する羨望に気づいていた。相司は松井の思い違いに気づき跳ね起きて、松井に背を向ける。
「お前みたいのは仲間に入れないぞ」
 相司は松井の言葉を無視して、地面に倒れていた自転車を起こした。
「やめろ」
 松井が言う。
「何を?」
「自転車の練習」
 どうして松井が自分に自転車の練習をさせたくないのか、わからなかった。松井の言う通り、自転車に乗れるようになったところで、彼らの集団には入れないだろうし、入る気もなかった。
「仲間にはならないよ」
 相司がそう言うと、松井は後輪に足をかける。タイヤはもうすでに汚れていたのだが、それでも自分の自転車に松井の靴がかかるのが我慢ならなかった。
「なんだ、その目は?」
「いや、なんでも……」
「仲間にならなくてもダメだ。お前は自転車に乗るな」
 さらに厭らしさを増した松井の表情を見て、自転車の練習を阻止する明確な理由などないのだ、と相司は察した。相司と違って自分は自転車に乗れる、という優越感を味わいたいだけなのだろう。相司が次にとった行動は松井はおろか、自分自身すら驚かせた。松井の足を蹴ってタイヤから足をどけさせた。松井の靴ではなく、脛のあたりを靴の裏で蹴り飛ばしたのだ。松井のジーンズに土の跡がついた。紛れもない暴力だった。大した痛みはないはずだが、おとなしい相司からの暴力に混乱したのか、まるで命でも狙われたかのような勢いで、松井は相司の下腹部を思い切り蹴った。相司はそのまま自転車ごと倒れた。
「言え。自転車の練習はしないって」
 松井はそう言って、倒れている相司に蹴りを入れる。少し興奮しているのか自分の頭をやたらと掻く。痛めつけるのが目的なら、もう十分だった。相司は息が出来なかった。最初の蹴りの痛みに比べれば、追い打ちなど、なでられている程度にしか感じられなかった。息が出来たとしても、相司は何も答えるつもりはなかった。蹴られたままにしておけば良いと思った。自分は曲乗りに興奮し、自分でもやってみたいと思って、ただ練習していただけだ。止める理由など何もない。相司はやたらと誇らしかった。自分は何を言われたところで、自転車の練習を止めないだろう。松井たちとは違う。明確な目的があって、自転車に乗ろうとしているのだ。松井の興奮は収まってきたようだ。蹴りの精度は上がり感情的ではなく、屈辱を感じさせる威力と頻度を計算しているようだった。まるでダンスだ。痛みで相手を屈服させるのではなく、靴の裏の土をなすりつけて、自分の余裕と優位性を示したがっている。松井が理性を取戻し、感情を制御できている証拠だが、相司が何も答えずにいると、リズムは乱れ、再び蹴りが蹴りと感じられるようになった。痛みと同時に松井の狼狽も伝わった。相司にとっては小気味良かった。もう、いつか再開される練習の事しか頭になかった。
「自転車の練習はしないんだろう?」
 松井もこんなつもりではなかったのだろう。落としどころを見失っている。単独行動をした事に対する後悔すら相司には伝わってきた。相司は再び空に意識を向けた。青空に感じられた翳りは、すでになくなっていた。
「わかったな」
 相司の意識が、松井とは別の方に向いた事を降伏の合図と勝手に解釈したのか、松井は蹴りを止め、自転車に乗って相司から離れていく。ようやく終わったと思ったが、相司はすぐに練習を再開出来なかった。まだ痛みが残っている。それが消えるまで、空を眺めていようと思った。相司は心地がよかった。大の字になり、僅かな土の熱と身体の痛みを感じながら流れる雲を見ていると、あの人工海岸の曲乗りを思い出す。
 自転車が倒れる音がした。相司が立ち上がり、そちらに顔を向けると、松井が倒れていた。もう一台自転車が倒れていて、その傍らには相太が立っている。松井の顔からは鼻血が出ている。相司は急いでそこに駆け付けた。
「いいんだ兄ちゃん」
 相太が戸惑いの表情を浮かべているうちに、松井は自転車を押しながら、空地から逃げ出そうとした。相太は追いかけようとするが、相司は押しとどめた。
「何がいいんだ?」
「ただの喧嘩だよ」
「こっちもただの喧嘩だ」
 相太はそうは言ったが、相司の様子を見て、追いかける意志は失ったようだ。
「練習、始めたのか」
 相司は頷いた。自転車に乗る目的、曲乗りの事は黙っていたが、勘の良い兄の事なので、きっと見抜かれているだろうと相司は思った。
「何で一人で始めようと思ったんだ?」
 特に理由はない。照れ臭かったからだ。自転車ぐらい、一人で乗りこなせるようになりたかった。
「迷惑だと思ったのか?」
「そんな事ないけどさ」
「お前は自転車の練習を見た事がないだろ?」
 その通りだった。兄が自転車の練習をしているところを見た事がないし、他の子供たちが練習しているところも見た事がない。
「楽しいんだぞ。手伝うほうも」
 相司には想像がつかない事だった。
「そもそも、自転車に乗る練習ってどんなものか知ってるのか?」
 今自分が行っていた事がそれだと相司は思った。ひたすら、倒れては起き上がりを繰り返す。それしか想像できなかった。
「荷台を掴んで、運転させるんだ」
「うん」
「それで、掴んでいる方は黙って離す」
「転ぶでしょ?」
「それが不思議と転ばないんだ。気づかないうちはな。離した事に気づいたら転ぶ」
 まるでコントだと相司は思った。サーカスのピエロがやりそうだ。松井たちもそんな滑稽な練習を重ね、自転車に乗れるようになったのだと思うと、傷の痛みが弱まった。
「そういう風にしないと、自転車には乗れないの?」
「さあね。お前みたいに一人で出来る場合もある」
 最初は相太の笑顔の意味がわからなかった。
 相司は自転車に乗って相太の元まで来ていた。距離にすると三十メートルだ。必死すぎて、全く気が付かなった。それほど相太の迫力は圧倒的で、相司に松井の命の危険すら感じさせたのだ。
「俺、乗れたの?」
「乗れたんだろ」
 相太はもう一度、自転車を動かすように言った。相司の自転車は、初めのひと漕ぎは上手くいったが、ふた漕ぎめを入れる前にバランスを大きく崩し、転倒した。
「まだ練習が必要だな」 
 相太はそう言って笑った。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?