【掌編小説】白樺の
木が人の形をしている、と土岐が騒ぐから仕事を中断してまでついてきてやったのに、肝心の木が見つからないまま、もう日が暮れ始めている。
「嘘ではないぞ」
嘘をついたわけではないことくらい、里見はわかっている。そうではなく、仕事を中断してまで見たかったものに辿り着けないで一日が終わることへの気落ちが、おそらく眉間の皺に現れてしまっている。そろそろ引き返さないと、ふたりして今夜の会合に遅れてしまうのも気掛りだ。
標高の低い山の端に、森が広がっている。笹と杉と椚が秩序を作っている森は、一年ほど前の嵐で大きく荒れた。いまだにへし折れた若い木が獣道を塞いだりしている。古い樹木が根こそぎ倒れた箇所には、光を求める低木が繁り、新たな秩序を形作っていた。
大股に歩く土岐の後を追う。速い。この男が、つい半年前まで肺病で入院していたというのが嘘のようだ。肋骨を取ったというが、代わりに馬力のある機械でも入れられたんじゃあないのか。息が上がりそうになるのを密かに抑え込みながら、里見は内心に悪態をつく。
探している木は白樺だ。
椚、楢、それらの合間になぜか一本だけ白樺が生えており、遠目にも白く発光するかのように目立っていた。近付いてみれば、まるで、人がそうなってしまった、という形をしていたから、これは里見に見せよう、とその足で誘いに来たと言う。
「おかしいな、」
土岐が足を止めた。腰の高さまである笹の向こうに、ぽっかりと何もない空間がある。
何もない。
嵐で根こそぎもっていかれた後に山火事でもあった、というわけでもない。
朽ちた倒木も、枯れ草も、芽吹く新芽も、柔らかな土も、冷えた空気も、そこには何もなかった。
「ここにあったのか」
「ここだ、この笹に目印をつけておいたのだから間違いない」
確かに傍らの笹に赤い栞紐が結び付けられている。
「そこにあった。人の形をした白樺があったんだが」
指差す先は虚ろだった。
真っ暗な空間だ。大人が二、三人入ればいっぱいになりそうな広さの、まるで南十字座の黒炭袋のような暗い空間がある。
おかしいな、と土岐が笹の向こうを覗き込んだりうろうろとしていたが、辺りはすでに暗く、郭公が鳴き止むと、虚ろがこちらに広がってくるような不気味さが出てきたので、里見は彼を促して獣道を戻った。
ということを、会合とは名ばかりの呑みの席で二人は話した。
途端に場は怪談お披露目会となり、店仕舞いになるまで、まるで賑やかな百物語だが、これも恒例だ。
さて解散後、里見と土岐と同窓生の三人で川縁を歩いていると、同窓生が徐に上着の袖をまくりあげた。
「さっき言っていたのは、こういう木の話じゃないか」
彼の腕は薄く柔らかな白い樹皮で覆われていた。
白樺だ。土岐が呆けたように呟く。同窓生は頷いた。
まさに白樺の枝、それそのものに彼の腕はなっていた。促されるままに触れば固く、乾いた樹皮は白樺のそれでしかなかった。手首から先は人のものだが、それも徐々に侵食されていっているらしい。
「しかもこれ、剥がせるんだ」
彼は腕を二人の前に突き出した。里見が僅かに怯んだ隙に、土岐が小さな節のあたりから白い樹皮を剥いだ。しゅる、とささやかな音を出して短く千切れたそれは、やはり白樺のそれでしかなかった。
里見も同じく樹皮を摘み、ゆっくりとひいてみた。やはり、しゅる、と剥けた。
三人、川縁で街灯に照らされて、白樺になった腕を見ている。
人が木になっていくのを見ている。
〈了〉
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