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自分は存在しない・・・


すべての思考は生命維持のためだけにある。
脳は生き残るためだけに思考しているのである。
脳はよりよく生きるための物語をいくつか組み立てるが、選択肢に大差はない。
その選択肢においての行動の結果もただの結果である。
そこには成功も失敗もなく、ただの結果なのである。
勝手にその結果に名称をつけているだけである。
思考が変われば、あっけなくその名札は付け替えらてしまう。
私たちが一喜一憂するのは、起きた事実に対して勝手に物語を脚色しているからである。

しかし人には感情があり、思考も止められない。

大事な事は以上の事実を認識しながら思考して生きる事と、それを知らずに作り上げた物語の中でだけ生きる事では大きく違う。

真実と事実の違い


真実とは事実の上に理想の物語で脚色したものである。

事実とは目の前で起こる事象そのものであり、そこには何者の意思や物語も反映しない。ただそこに存在するだけなのである。

一本の木が倒れていたとする。
ただ倒れているだけである。
それは目の前で認識できる事象であり、事実である。
しかし我々はなぜ倒れているのか思考する。
真実を追求し始めるのだ。

木が倒れていたという事実に対し、我々は思考という色眼鏡で観察し、更に思考を重ねていくのである。
答えのない問いに対して「なぜ?」を繰り返し、納得するまで思考の範囲で上塗りをする。
立っているものがただ倒れただけなのに・・・
あるものは「木が朽ちたからだ」と言い
あるものは「強風のせいだ」と言い
あるものは「神の試練だ」と言う

真理の追求


真理とは真の物事の法則や理(ことわり)の事である。
真理を追求する事は我々自身の存在意義や理由を問うているに等しい。
すべての学問は物事の理(ことわり)を追求している。
言い変えればすべての思考は真理を追求するために存在する。

真理を手に入れる事を宗教上では「悟りを開く」とか「開眼する」と定義することがあるが、その時が訪れた時、人は思考ではなく、感覚的に感じとるものなのだろう。

日常の判断や選択を何に委ねれば良いのか?

答えは簡潔である。
感じたままに行動するだけである。
ただしその自身に起こる事象(事実)から目を背けてはならない。
また起きた事象に対して物語で塗りつぶしてもいけない。
ただ受けと止めるだけで良い。

そしてその情報をもとに脳は勝手に次の決断を生むだろう。

宗教的な心理へのアプローチの求めるところは、
苦行を重ねて思考ではなく肌で直感するためである。
あるいは神のみぞ絶対的存在であり、その教えに思考を捨てただ身を委ねるのである。

どの方法にも属さず個人が真理にアプローチするには、思考を存分に使い、自分なりのストーリーを重ねに重ねたあと、その先の虚無を認識した上で、今まで得た思考をすべて投げ捨ててしまえば良いのである。

そこに意識の存在はなく、すべてのものと同化した自身の存在がただ風の如く揺れているだけなのである。

すべての思考を停止し、感覚を研ぎ澄まし、宇宙の一部となり得た時、すべての呪縛から解放されるのである。
思考を捨てる・・・
自己の認識さえも捨ててしまえばよいのである。
この世から自己を解き放って無に還るのである

そしてここに書き記したストーリーもあなたはただの事象として受け止めなければならない。
すべては認知しなければ存在しないのだから…











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