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「崖」と「桜」とたまってゆく「下書き」の話~同居人を添えて~

わたしと同居人が住む家の裏には、コンクリートでできたものすごく高い壁がある。
わたしはそれを人に説明するとき、いつも「崖」と呼んでいる。
よく考えるとまったく「崖」ではなくて、どちらかというと「壁」なのだけど、「壁」と聞いて想像する高さの4倍はあって、どうも言葉では説明がつかないので「崖」と言うことにしている。
と言っても、わたしは家からほとんど出掛けず、基本的には家にお招きした方としかお話しないので、「こちらがその崖です」と窓を開ければ説明はつくのだけれど。

最初はこの崖が気に入らなかった。
一部屋だけ崖側にしか窓がない部屋があるのだけれど、思いのほか近くにある崖のせいで昼間でも薄暗く、内見のときにはすこしだけ「うーむ」と思った。
けれど、それ以外は完璧を上回るような家だったし、崖のコンクリートの隙間からは植物が生えていたので、即決して家を借りた。
同居人は、コンクリートから生えている花やら枝やらが好きだ。
それが1本だけだったり、不思議な伸び方をしているとなお良い。
散歩をしていても、コンクリートから生える植物を見ると写真に収めずにはいられないらしい。
だからわたしもそんな植物を見つけると、「あ、きみが好きそうなのがあるよ」と教えてあげることにしている。

崖はなにせ大きいので、いたるところからニョキニョキと植物が生えているのだが、その中で同居人もわたしもとても好きな枝が1本ある。
正確に言うと、同居人は最初からものすごく気に入っていた枝で、わたしはそれほど共感していなかったのだけど、あることがあって今年の春にものすごく好きになった枝だ。
昨年の秋に引っ越したときには、葉がすべて落ちて裸になっていて、侘び寂びしか感じないような枝だった。
崖側にしか窓のない部屋を寝室にしたわたしたちは、その部屋が人目も日差しもなく特に何を遮る必要もないのを良いことに、今もまだカーテンをつけていないので、毎朝目覚めた瞬間にその枝の安否を確認することができる。
それと同時に微動だにしない巨大なコンクリートの不健康なねずみ色も確認できてしまうので、引っ越したばかりのころは「うーむ」と思っていた。

ところで、あまりに崖の話をするから、なんてかわいそうな家に住んでいるんだ、と思われてしまうかもしれないが、実を言うと玄関側はすぐ目の前に海が広がっていて、こんなに景色の良い部屋に出会うことは人生の中で一度あるかないかくらいと言っても過言ではないような家だ。
その裏が崖なだけなのだ。
天気の良い凪の日に、景色を眺めながら「西洋画みたいだね」と同居人と話す時間は至福のときである。

さて、なぜわたしがその崖を好きになったかである。
それは今年の4月のことだった。
いつものように朝起きて同居人のお気に入りの枝の安否を確認したところ、なんとその枝から桜の花が咲いていたのだ。
我々が毎朝見守っていた枝が、まさか桜の枝だったなんて。
わたしはこういった時が経ってから現れる意外性のようなものに弱い。
知っていると思っていたことを実は全然知らなかった、ということを知るのは、わたしの中では一種の快感である(好きな人の悪い事実を知る場合を除く)。
今年は花見に行かなかったが、寝室で同居人と「枝花見」をできたことは、わたしにとって花見以上の価値があった。


第一印象が気に入らないものは、いずれこうして好きになることが多いように思う。
ちなみに同居人の第一印象も最悪だった。
以前ジブリの話で書いたように、同居人は魔女の宅急便のトンボにそっくりで、どうもデリカシーのない女性と仲の良い人、というイメージだった。
わたしがこれまでの人生で見たことがないような距離感で男性とも女性とも話すのである。
いずれこれは下心など一切なく特に何も考えていない結果だということがわかるのだが、第一印象は最悪だった。
けれど話をするにつれて、わたしの好きなものを馬鹿にしない、むしろわたしと同じレベルで大事にする人だとわかった。
たぶん同居人は、誰に対してもそうやって接していると思う。
わたしの「言葉に対する執念」みたいなものを、まわりの人は「やばいね」とか「ちょっとおかしい人だ」とか本当にそう思っているわけではないと思うけれど、話のノリで馬鹿にしたりする。
けれど同居人だけは話のノリなど関係なく「もっと聞かせてほしい!」と言ったのだ。
そして、慎重に言葉を選ぶわたしに合わせて、彼も慎重に言葉を選んだ。
チャラついた人間だと思っていたけどそうではないらしい、と気づき、わたしはまた「無知の知」効果でひとり人を好きになったのである。

今、わたしの中でどうも好きになれないものがある。
それは、コツコツとためられていくnoteの下書きだ。
投稿をしていない間も、何本か文章を書いているのだが、8割くらい書いたところで筆が止まってしまう。
原因はなんとなくわかっている。
少し前に書いた湯婆婆の記事だ。適当に書いたのだけれど思いのほか人気が出た。
毎日スキやフォローの通知が来て、ものすごく嬉しいのだけれどほんの少し窮屈な感じもしている。
「湯婆婆がウケるのか」「フォローしてくれた人は湯婆婆系が読みたいよね」「湯婆婆ネタないかな」「なんか文章が硬すぎて湯婆婆感がないな」「なんかこれってわたしの意見を押し付けてるみたい。もっと湯婆婆みたいにゆるく」…
わたしは湯婆婆に囚われている。
同居人にそう言うと「好きなことを書けば良いさ」と言われた。
その通りだ。フォロワーだってそんなに増えちゃいない。好きなことを書けば良いのよ千。こんなところで毎晩働いていないで、もっと自由に生きなさい千。お父さんとお母さんだって、別に取り返さなくったって良いのよ、これはジブリの映画じゃあないんだから、千。千?千…!
と、このとおり、いつも湯婆婆思考に戻ってきてしまうのである。
わたしは湯婆婆シンドロームだ。


家の裏の崖を好きになったように、同居人を好きになったように、世界史を好きになったように、ジャニーズを好きになったように、いつか下書きたちの意外な一面に気づいて好きになれるときが来るのだろうか。

ひとまず5月中。5月中には下書きを公開したい。

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