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自分が守りたかったものが分からなくなった話

前回 (怪我でキャリアを奪われたら、何を目的に生きれば良いのだろうという話)の続き。私の今の話。写真は雨上がりのフランス、リヨン。あの頃もまた、色々と悩んでいた記憶はある。落ち着いたら海外と日本人というのも書き落としたいなとふと思った。

小説を書くのが好きで、かれこれ10年は書いているはずなのに、最近アウトプットが上手くできない。理路整然とした文章なんて書けなくなってしまって、こうしてつらつらとノートに書き落とすのにもすごく労力が必要になる。必要な労力を蓄えているうちに私の思考は移り変わって、気付けば何を考えていたのか、何に悩んでいたのかさえ思い出せなくなる。最近そんなことが増えた。脳が勝手に記憶を消して、ストレスがかからないように自衛しているような気さえする。記憶があると、勝手に自分が”再生ボタン”を押して、何度も自問自答しては苦しんでしまうからかもしれない。

最近、ここのところ1、2か月で、怪我のつらさ、筋力低下と膝の可動域が不足していることによる生活不自由は相変わらずだけれど、それでも休職直後の(3か月前、12月のことだった)過労状態からは抜け出せて、少し穏やかな日が増えた。そうなってくると、仕事に戻る、という考えが出てくる。が、困ったことになった。それがタイトルの通り、私がどうして過労状態になるまで働いていたのか、それが分からなくなっていた。

去年の秋から冬にかけての記憶ははっきりしない。正確には、やったこと、仕事の内容は覚えているけれど、当時の自分の考え、感情がはっきりしない。何か大切なものを失うから、だから今実験を止めるわけにはいかない、今ここで開発職の仕事を失うわけにはいかないと、その一心で過労状態になるまで仕事をした、気がする。けれども、私は何を失うと思っていたのか、どうして開発職の仕事を失いたくないと思っていたのか、それがさっぱり分からなくなってしまった。私の大切だった何かを、どこかに落としてきてしまった。そんな気がしている。

とはいえ論理的に考えれば、いくつか理由は出てくる。
1つは新卒2年目で技術職キャリアを失えば、転職後にまた技術職になることは難しいと思っていること。そして、社内で一度管理部門に異動して、また技術職に戻ってきた女性を知らないこと。

今技術職を諦めてしまうと、2度とできないかもしれない。

わざわざ大変な研究室を出て修士号まで取ったのに、技術者としてのキャリアが僅か1年で終わるという事実に、私は向き合うことができなかった。このまま今の仕事を頑張れば、大手企業新卒採用の総合職というキャリアパスに無事乗ったままでいることができる。仕事の負荷が良い効果となって、より怪我のリハビリが進んでくれる。そんな都合の良い希望に目がいって(実際仕事が良い負荷となりリハビリが進むケースもあるのだけれど)、不自由な身体で無理矢理実験した。鎮痛剤を飲まないと、杖を使わないと生活できないくらいまで痛めつけてもなお、他の道を考える余裕さえなくなっていた、気がする。

とはいえ、私が過労になるまで身体を痛めつけてなお、守りたかったのは本当にキャリアだけだったんだろうか。何だかもっと大切な何かが、楽しかったであろう日々があったはずなのに、ぽっかりと記憶が抜け落ちてしまっている感じだ。もしかしたら、本当は何もなかったのかもしれない。私は適当な理由をつけて考えることを放棄して、身体を使い潰すか怪我が治るかのチキンレースに逃げ込んだのかもしれない。

崖から落ちてしまった今となっては、走っていたまさにその時見ていた景色なんて、きっと思い出せない。これから先復職条件を、キャリアを決めなければならないと思うと吐き気がする。もはや劇的な回復が期待できないこの怪我と、自分が守りたくて、けれども多分失ってしまった何かと、どう向き合っていけば良いんだろう。

2020/11/22 追記
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