原作小説が刺さりに刺さった人間による、映画『傲慢と善良』感想
お気に入り度:★★★・・ 3 / 5
小説『傲慢と善良』を読んだきっかけは、人からのオススメだった。
普段、自分は何を読むにしても観るにしても、気になったものを気が向いた時に楽しむスタイル。そして、小説は滅多に読まない。だから、人からオススメされた小説を読むなんてかなり珍しいんだけど、『傲慢と善良』は予想外に刺さりに刺さった。
「現代の婚活」を扱った同作は、サスペンスさながらの場面で幕を上げ、失踪者の捜索という話の中で「人が人を値踏みする行為・心理」をこと細かに描写する。読んでいて心臓が縮んだ。自分はなんて恐ろしい社会にいるんだろう。いやでも、自分もそんな風に人を見ていることあるかも。なんか色々つらくなってきた。もう山にでも籠もろうか?
しかし、読み終わってみると、非常にピュアな人間ドラマだと思った。「傲慢」と「善良」、ネガティブとポジティブの対照的なイメージを持つ二つの言葉を通して、「より良い人生を歩みたい」という人間の願いを見た。傲慢だから、善良だからと、人生がポジティブなものになるとは限らない。心臓が縮むような体験の先で、こんな晴れやかな読後感を得られるとは。
さて、映画版はと云うと、まず原作小説の醍醐味であったミステリー要素や緊迫感が欠けている。また、原作小説と違って架視点と真実視点が入り混じっているので、架の物語から始まり、途中で真実の物語に切り替わる衝撃も欠けている。原作小説で面白いと思っていた部分が尽く欠けていて、薄暗闇の劇場内でうなだれた。
画作りは制作期間が短いのか、微妙に安っぽい。架と真実のデートシーンは自撮りスライドショーだし、架の元カノについての回想シーンは裸で乳繰り合っている光景という。後者に至っては、架がふられたのは将来設計を先延ばしたせいというより、セックスのことばかり考えていたせいじゃないかと余計な疑念を湧かせてくる。
静の場面でもカメラが固定されておらず、終始画面が揺れていたことには、意図をはかりかねた。登場人物の精神の乱れを表現しているのだろうか? この作品でカメラワークを工夫するなら、登場人物の所作をいちいちクローズアップするなどして、人が人を見る行為の厭さを表現すれば良いのに。
それでも前半は、概ね原作小説通り。映画という形式に合うように内容を取捨選択し、組み直した範疇と捉えられなくない。けれど、次第にその範疇を超えて、妙なアレンジが加わってくる。
原作小説では、終盤に真実が再び架と連絡を取った後の展開はシンプルだ。会ったばかりのおばあさんに自分の恋愛を「大恋愛」と評された真実が、架との再会を決意する。架は再会の場で、真実に結婚を申し出る。そうしてよりを戻した二人は、真実の要望で親や昔からの知り合いを呼ばずに、ひっそりと結婚式を上げる。
この部分が映画版では大きくアレンジされている。真実は他人を使って架を呼び寄せ、架に一度別れを告げる。しかし、世話になっているヨシノからの言葉で考えを改め、架とよりを戻すことにする。結婚式のくだりはない。
この無駄に複雑なアレンジによって、テンポが悪くなっている上に、真実が自分の人生を自分で選び取った感じが弱くなっている。真実が母親くらい女性の言葉で人生の決断を覆したと受け取れるアレンジは、あまりに余計だと思う。
終盤に関してもっと云えば、原作小説のように「前半は架が主人公、後半は真実が主人公」ときっちり分けていないが為に、感動が減っている。原作小説を読んでいた時、前半では「他人のことを分析するちょっとイヤなやつ」という印象だった架が、後半で主人公(真実)に会いに来て、一途に愛を告げる姿に感動したのに!
総じて映画版は、原作小説のダイジェスト以下の内容だったと感じる。良かったのは、キャストと照明とヤギ。時々実年齢よりもずっと幼く見える真実は、かなり真実だった。
…あ、けど、花垣のキャスティングは違和感あった。真実ちゃんの趣味じゃないでしょ、絶対。
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